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2.09.2013

三軒茶屋中央劇場 閉館に向けて



■少し前にtwitterで知り、劇場入口の貼り紙を見て、大ショックを受けました。三茶の中劇:《三軒茶屋中央劇場》が02/14をもって閉館するというのです。

ここは三軒茶屋のシンボルですし、この映画館と劇場があってこそ、この街は独自の文化的な魅力を保持しています。

資本主義のシステムにすべてが組み込まれ、流されていくことは、人間の営みとしての知恵を欠き、数値に換算できない豊かさを無為に手放してしまう、ひとつの明確な敗北であると思います。

確かに“きれいごと”で固定資産税は払えないわけですが、スクラップ&ビルド思想に(ごく一部の人々を除いて)もはや誰も明るく豊かな未来など見て取らないのですから、これからは、そういう“きれいごと”にこそ、価値を見出し、市民が力を合わせて、こだわっていくべきだと考えます。

それは言わば人間らしさを賭したシステムとの闘いなわけですが、そもそも、その大切さを教えてくれたのが、この劇場でかかっていた映画なのです。

上掲のウェブサイトで、「三軒茶屋のミニシアターの灯をともし続けたい!」という思いに賛同する人に対して署名を募っています。

映画業界のディジタル化の波に飲み込まれ、高額なディジタル上映機材が導入できない地方の映画館やミニシアターが、今、次々にやむなく閉館に追い込まれているわけですから、これは三軒茶屋だけの問題ではなく、日本中の文化の危機という社会問題なのです(この問題に関して《ワタシネマ》さんのこのブログが詳しい。http://www.watacinema.com/?p=3635 )。

世田谷区や東京都にお住まいの方でなくても、この問題を深刻にとらえていらっしゃる方は、是非、署名してください。

1.15.2013

雪の日の日記

■昨日の大雪の中、かれこれ20年来の友人で、パリから帰郷中のジャーナリスト、佐藤久理子とランチした。

場所は《農民カフェ》学芸大学店(東京都目黒区)。下北沢店には行ったことがあってとても好きな店だが、二号店が学芸大学(駅)にも出来たというので行ってみた。といってもオーナーの和気優さんはそもそもくりちゃんのお知り合いで、その関係で下北沢の《農民カフェ》を知ったのだったが。


で、このランチ・プレイトがまたおいしいんだよ。普段、脂っこいものとか刺激物がガンガンに好きなオレも、ときおりヴィーガン・レストランに行く趣味もある。動物性の味(旨味)に頼らない野菜料理は、当然その素材の滋味を味わうのと同時に、その調理法の“工夫”がごちそうだ。プレイトになっていると、素材ごとの味の違いを引き出す技とアイディアがいろいろ体験できるのがとても楽しい。

前回下北沢店で食べたランチ・プレイトはヴィーガンだったけど、学芸大学店で昨日食べたものは、ほんのちょっとだけ肉を使っていた。食べたくない人はオーダー時にそう言えば、きっとそこだけ別の一品と変えてくれるんだと思う(下北沢店でも、夜の酒場営業時には肉を使った料理も出す)が、それでも95%ヴェジなプレイト。左は付いているスープで、赤カブのボルシチ風な感じのもの(写真のヘタさのせいじゃなく、つまり本当に赤い。ほんのり甘苦い、こっくりとしたうまさ!)。

くりちゃんとの話は密談なので書けない(笑)。和気さんを交えたディスカッションも有意義だった。

で、オレは彼女にできたてホヤホヤの『コンバ』(今日明日くらいから順次書店に流れるはず)をあげたが、彼女はアンヌ・ヴィアゼムスキーの新刊『ユナネ・ステュディユーズ』と、くりちゃんの友人の写真家リシャール・デュマ(Richard Dumas)が撮ったジャン=ピエール・レオーのポートレイトをおみやげにくれた!!!


ゴダール作品(『中国女』↓『ウィークエンド』〜ジガ・ヴェルトフ集団作品)で有名な俳優で自らも映画を作り、作家でもあるアンヌ・ヴィアゼムスキーの昨年フランスで話題になった新刊は、彼女が『男性・女性』を観てゴダールにファンレターを送るところから始まって、二人が激しい恋に落ち、1967年の『中国女』に起用され、結婚に至る時期について書かれたもの。小説とはいえ、ほぼノン・フィクションに決まっている(ざっとめくっただけでもブレッソン、ロッセリーニ、ラングから、ラ・ヌーヴェル・ヴァーグ関係者の面々が実名で登場するし、もちろん68年5月革命に向かう“政治の季節”ならではのくだりとして、5月革命の重要拠点となったパリ第10大学(ナンテール)の構内でダニエル・コーン=ベンディットがヴィアゼムスキーをナンパする場面が出てきたりする!)。ダニエル・コーン=ベンディットの名前は『コンバ』にも出てくるよ(くりちゃん、ありがとう!)

なんかiPhoneを買ったら、いきなりブロガーっぽいブログを書いてみたくなった(笑)ので、実行してみました。結構楽しいな。



8.16.2012

ボブ・マーリー、オフィシャル・ドキュメンタリー映画のレヴュー(没原稿)

■とある雑誌から、もうすぐ公開になるボブ・マーリー、オフィシャル・ドキュメンタリー映画『ボブ・マーリー / ルーツ・オブ・ レジェンド』のレヴューを依頼されたので、感想を好きに書いたら、そのぼくに発注された記事がいわゆる〈出稿記事〉だったらしく、原稿を映画配給会社がチェックした結果、その内容が問題視され、“ダメ出し”された。で、編集部も食い下がってくれたみたいなんだけど、結局ボツになった(実は、編集部から一度原稿の訂正を依頼されたけど、直す必要を感じないので断った)。
 そもそもこれが〈出稿記事〉であることをオレは知らされなかったし、知らされていたら仕事として受けなかった(観る前に、聴く前に、読む前に、“褒めなくちゃならないことだけ決まってる”原稿なんて、不器用なオレには書けない)。
 ま、「オレのもらうのは原稿料? それとも褒め賃?」ってことを最初に問わなくちゃならない世の中らしい、ということを学べた(46歳)真夏の事故ということで片づけよう。ただし、書いたものはもったいないので(ちゃんと真剣に書いてる、当然ながら)、ここに公開します。雑誌名さえ明かさなかったら迷惑をかけることもないし、倫理的な問題はないと思う。どうせ仕事じゃなくとも、この映画を観たらここに同じ感想は書いただろうから結果的には同じだし、正直に感想を書いた方が、〈マーリー最高! 感動の涙が止まりませんでした! 彼の歌は永遠に鳴り止まない! 有名人A〉みたいな安い“感動”宣伝よりもリアリティーがあって、むしろみんな映画が観たくなるんじゃないかと思うけどね。
 念のため確認しておきますが、ぼくは「このマーリーの映画を観ることをみんなに薦めるか? 薦めないか?」と問われたら、絶対に薦めます。観る価値がある。ただ、観れば各自自分なりの感想を持つことは自然だろうし、オレはそれを書いたまで。

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 ジャマイカ独立50周年である2012年、ボブ・マーリーのオフィシャル・バイオグラフィー・ムーヴィーが世界で公開される。日本は欧米諸国に遅れること約半年、この9月に公開となる。結論から書くと、すべての読者にこの映画を観ることを薦めたい。144分まったく飽きさせないエピソードと映像の連続に、体験して損だと感じさせる要素はまったくない。そしてこの、スクリーンに向かっている時間の充実感を味わわない手はないと思うからだ。
 マーリーに関して持っている知識は、人によってその質も量も違う。だから万人が満足するドキュメンタリー映画を作ることは事実として難しく、ならばこの作品が一体マーリーについてどの程度の知識を持っている人たちをメインの対象として作られたのか? それがこの作品の深さや質感を規定する第一のものだ。ぼくが観たところ、これは明らかにマニアを対象にしたものではなく、没後30年を過ぎた今後もより多くの人々にマーリーを“正しく”知ってもらうため、語り継いでもらうためのマニュアルとしてのドキュメンタリー映像をオフィシャルに制作したもの、という印象を受けた。上映時間2時間24分は決して映画として短いサイズではないが、それにしてもマーリーの生涯を余すことなく伝えたり、マニアックなエピソードまで多数盛り込むのに充分な時間であるはずはない。だから本誌読者のような音楽ファンならば、まずはこの144分に映っているものを存分に楽しみ、その後、この144分にまとめあげるために、何を語らないことにし、何を削ったのか? についても考えてみることを薦めたい(マーリーについて一定量以上の知識を持っている人ならば、各自自然に考えてしまうだろうけれど)。
 それから本作にはマーリーの発言が随所に出てくるが、彼の発言のどの部分を切り取り、それをどんな場面に挿入するかによって、その言葉が与える印象は変わってくる。それが編集というもので、つまり編集作業自体がメッセージなのである。だからこの作品はマーリーのメッセージを伝えると同時に制作側(この場合マーリーの遺族側の、と言い換えていいだろう)のメッセージをも伝えている。我々はマーリーの生涯が純粋に144分間に凝縮されたものを観るのではない。これは明確な意図と方針に基づいて編集されたマーリーについての144分間の伝記なのである。その点に留意して観るべきだと思う。そして以下が、ぼくが個人的に抱いた感想である。

 映画は海とボートのカットから始まるが、ありがちなジャマイカのステレオタイプな太陽と海の映像かと思いきや、次のカットでガーナのケイプ・コースト城が映し出され、そこが西アフリカだということが分かる。ケイプ・コースト城は、奴隷貿易の拠点として使われたことで名高い要塞だ。このマーリーの伝記映画は、地下牢の劣悪な環境に置かれ、その身を売り飛ばされる瞬間を待っていたアフリカ人たちの心情を想起させる場所の映像を冒頭に置いている。シークエンスは、そこの扉を通った“奴隷”たちが二度と故郷に戻ることができないことから名づけられた〈Door of No Return〉のアップへと続き、その扉を開けると、マーリーがステイジで「ジャー・ラスタファーライ!」と叫ぶカットにつながって、この伝記映画は幕を上げる。この最初のシークエンスは、本作の中で最も印象深いもののひとつだった。
 それと並んで興味深かったのは、マーリーの出生地セント・アン教区ナイン・マイルで、同地の様子や、バニー・ウェイラーが最初にマーリーに出会った瞬間について語るくだりに続き、母セデラ・マーリー・ブッカーや同地に住むボブのいとこの証言によって、父親ノーヴァル・マーリーの人物像について語られるところだ。“黒人側”からの話だけでなく、父親側の親戚にも取材しており、父ノーヴァルの人となりが〈第二次大戦でインドに赴任し戦争神経症になった、酒浸りで、型やぶりの男〉として語られている。つまり今までは情報の少なさからあまりはっきりしたイメージを抱けなかったマーリーの父親について、その存在だけでなく、人間味にまで言及し、白人側の家系(の顔)までも登場させることで、この作品はマーリーの中の“白人”にはっきりスポットを当てている点に注目した。つまり、アフリカ人“奴隷”の末裔と白人種との50%/50%の混血であることをきちんと強調しているわけだ。本作を、タフ・ゴングの映像部門《タフ・ゴング・ピクチャーズ》が白人の監督ケヴィン・マクドナルドと組んで制作したことが象徴的に示している気がするが、バラク・オバマ以降の“混血の新時代”に、マーリーの混血性を世界の融和のひとつのシンボルとして提示し直すという意味を、この映画にメッセージとして持たせたのだろう。
 しかしながら幼少〜青年期のマーリーは、ジャマイカにおいて黒人でも白人でもない、茶色の肌の“ハンパ者”扱いされ、ときには“拒絶”されて、たいへんなつらい思いを味わっていたことがバニー・ウェイラーらによって語られている。“よそ者”だと差別された少年が自分の存在意義を見つけ、その道を歩み始め、遂には成功を手にする、という成功譚の前段にそうした乗り越えるべき苦難が示されるのはクラシカルなストーリー=テリングの定石だが、この映画は、その成功の原動力として、マーリーが〈自分は黒人でも白人でもなくラスタファリアンだ〉という点に自分のアイデンティティーを見出し、超人種的な存在になっていった、という描き方をしている。マーリーの「オレは黒人の側でも白人の側でもなく、神の側にいる」という発言が力強く引かれているのはそのためである。
 ぼくはそこに本作品の最大のポイントを見た。最後まで観ると、そのポイントは、次のように肯定的に展開されていることが分かる。すなわち、マーリーはラスタファリアニズムと出会い、神が黒人も白人もお作りになったのだから、その両者から生まれた自分が自分の出自を恥じる必要はないのだと悟ることで救われ、ラスタファリアンとしてレゲエ・ミュージックを歌い、スターになった。神の御名の下に、世界はひとつであるべきだ(ワン・ラヴ、ワン・ハート)、というそのマーリーのメッセージは今も世界中で尊重され、人口に膾炙している、というものである。映画の最後にも、マーリーの「白人も黒人も中国人も、すべての人類が共に暮らすことが俺の唯一の望みだ」というメッセージが置かれて、そのポイントを補強している。
 しかしこの映画では、その展開の間にきちんと語られていないことがあり過ぎることも事実だ。そもそも白人と黒人の間の不和(特に黒人が白人に対して抱く敵意、わだかまり)はどこに起因するのか?(昔から仲が良いのであれば、黒人と白人の混血がつらい思いをすることはないのだから)。本作はそこを冒頭の〈Door of No Return〉を大写しにすることだけで済ませてしまっているが、ならば奴隷貿易は何のためだったのか? それは誰がどんな社会/時代背景の下に主導したものであったのか? そこにキリスト教はどう関わったのか? といったことを説明し、そうした状況のカウンターとしてラスタファリアニズムが存在することを、つまり〈Door of No Return〉とラスタファリアニズムとの関係を明確に示さなくてはならなかったのではないか? 北南米、西欧やアフリカの観客に対しては西欧帝国主義と奴隷貿易についての説明など必要ないのだろう。しかし彼(女)たちがみなラスタファリアニズムの肝を理解しているはずはない。ましてやそれらの事柄のいずれに対してもさほど親和性を持たない日本の観客は、この映画が省略している事柄を、映画を観ながら頭の中でどれだけ補完し得るのだろうか?
 白人と黒人の間の歴史を明示せず(つまり両人種の間に横たわる問題点をつまびらかにせず)、この2012年現在に至っても、欧米先進国(G8/日本含む)は経済途上国に対して新自由主義という名の新種の帝国主義政策を取り続けており、そうした権力が世界銀行や IMF を手先に操って途上国から搾取し続けている事実にも全く触れていない。アフリカなどは現在、〈Door of No Return〉を通るまでもなく、その自分たちの母なる大陸にいながらにして西側の“白人”から搾取され続けていることを、そしてジャマイカも搾取されている国のひとつだという点をまったく描いていない。要は問題の根源を示さないままでの、〈マーリーはすべての人類が共に仲良く生きることだけを夢見ていた〉という話の締めでは、それはあまりに子供騙しなのではないか、という印象は正直言って拭えないのだ。
 そうしたナイーヴな政治問題を極力扱わず、よって世の中のどんな政治的な動きに対してマーリーはどう反応し、そこでどんなメッセージを書き、述べたのか? についてもほとんど触れず、西欧白人至上主義の歴史も、ジャマイカに入植した国々も、そこへアフリカ人を拉致してきた者たちも名指しで糾弾することなく、ジャマイカの二大政党間の内紛は描くもののその背後にアメリカが存在していることもおくびにも出さず、自分の権利を手にするために「Get Up, Stand Up」しなくてはならないような、弱者を虐げ続ける社会構造に関しても言及しない代わり、この映画は、マーリーの生き方も、その歌のモティヴェイションも、そのほとんどすべてを〈ジャー〉と〈ラスタファリアニズム〉に回収してしまう。混血マーリーの存在は未来のためのポジティヴなシンボルにはなり得るが、過去の、そして現在の事実認識とその反省なくして未来の世界平和などあり得ないだろう。さらには、人種間の問題も、みんなが特定の「神の側に」立てば解決の方向へ向かい、みんなが幸せになれるかのような印象を抱かせかねない編集は、マーリーの音楽の社会性に照らし合わせると、制作側の偏狭な思惑を感じないわけにはいかない。それが悪い、というよりも、そうしたことを敢えて描かないことに決めた作品なのだと、ぼくは認識した。つまりこの映画は、誰も敵を作らないことに留意し、世界中のあらゆる政治思想を持った人々に、そのできるだけ多くに観てもらえるように作ったのだろう、と。この“オフィシャルな伝記映画の中のマーリー”は、自らは問題を何も指摘せず、ただ理想を述べる平和のアイコンとして編集されたのだ。
 この映画で制作側が意図的に伝えなかったことがあるという事実は、セデラ・マーリーやジギー・マーリー(ともに“正妻”リタとの間に産まれた子供=メロディー・メイカーズ)はきちんとボブの子供として登場するが、本作に再三登場する重要人物シンディー・ブレイクスピアーがダミアン “ジュニア・ゴング” マーリーの母親であることは教えてくれないことからも容易に想像がつくだろう。また、この作品で採用されているマーリーの発言はどれも明快で分かりやすいものばかりだが、しかし実際のマーリーの発言には、容易に理解できないような禅問答的な言い回しもたくさんあったのだから、こんなに常にシンプルな人ではなかったはずだ。
 とはいえ、それでもこの作品がマーリーの人間的な魅力を多角的に描き出していることは全く否定できない。それすら編集されたものであるにせよ、彼の人となりはかなりありのままに描かれているのだろうと想像できる。世界中がこれまでに共有してきたマーリーのイメージはここで棄損されることなく再確認されている印象を持つのだ。つまりこれは世界を驚かせるための作品でもなければ、世界に問題提起する作品でもなく、偉大なるアイコンとしてのマーリーを永久に保存、伝承するためのものなのである。とはいえ、女性に対してはフェアでなかった、というような、愛人が語る耳の痛い発言を盛り込むことには躊躇せず、聖人君子ではないマーリーの人間くささを感じさせもする。
 数々の証言者の発言はどれも貴重だ。特にバニー・ウェイラーやウェイリング・ソウルズの“ブレッド”・マクドナルドの饒舌振りはうれしい。スタジオ・ワン時代を中心とした初期のエピソードは特に充実していると思う。ライヴ映像に関しては、どれも充分に満足できる長さではないものの、貴重なものも随分出てくるし、映像資料としては満足がいく使い方がなされている。ただし、故人であるとはいえピーター・トッシュの発言が出てくるのはたったの一箇所だったり、スティーヴン、ダミアン、キマーニ、ジュリアンらの息子たちは全く登場しないし(子供っぽい大人の事情があるのかもしれない)、マーリーと同時代の他のレゲエ・アーティストに言及する場面もない。つまり“画角”は実に狭い。ただ、ひたすらにマーリーを描くことで、孤高の存在感を強調しているようだ。
 立ち上がり、世の中にプロテストするその相対性の中に存在したマーリーなのに、その人そのものを愛することが目的化している作り、遺族側が作った未来用のプロモーション映像的、あるいは出題者タフ・ゴングが自ら用意した模範解答的ではあるけれど、それでも、というか、むしろそれゆえに、この作品はマーリーの人としてのチャーミングさにピュアにフォーカスしていると言えるだろう。いずれにせよ、マーリーのファンならば観ないで済ませるという選択肢はない。

鈴木孝弥

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5.19.2012

(毎度遅くて、ダメダメな)お知らせなど

■発売中の『ミュージック・マガジン』に書いた原稿のお知らせをしようと思っていたら・・・20日売りなのでもう翌6月号が本屋に並んでたりするんでしょうか? まあ、毎度の遅くてダメダメな告知ですが、5月号《ポイント・オヴ・ヴュー》のコーナーに『市民の反乱の集積によって 原発を求める社会構造を窒息させろ』という原稿を、


《ランダム・アクセス》のコーナーに『ブラックパワー・ミックステープ~アメリカの光と影』の映画評を書いてます。




『ブラックパワー~』は、今はまだ東京・新宿だけの上映で、今月末から大阪・梅田でも観られるらしいですが、そのうちにDVDになるでしょうし、お近くで公開しないという方も、ミスしないで是非観て欲しい1本。これは、オレたちみんなの話ですから。


昨年の311からここまでの、あまりにも異常で異様だった時間の流れを丁寧に記録し、その上で、抵抗心を去勢されたこの国の住民(=被曝者)にとって、この先どれだけの長さが残されているのか知れないそれぞれの余命を、人間としての尊厳を取り戻した上で生きていくための道が示されている書。
楽になるためにこの1年の時間を記憶の外へと追いやり、楽になるために見るべきものに目をつぶっている人は、まさか自分から手を伸ばす本ではないだろう。ただ、著者である作家・山口泉がこの本の中で、我々はすでに今「この世の終わり」の後を生きているのだと断じている、そのことの意味、その言葉の重みを想像するくらいはしてみて欲しいものです。

と、音楽雑誌に音楽以外の原稿ばっかり書いてるみたいですが、毎月のレゲエのアルバム・レヴューはちゃんとやってます。

それから、これもほんとにギリギリの情報ですが、明日のデモ

NO NUKES MORE HEARTS
NO NUKES ! ALL STR DEMO 4
原発0! 再稼動反対!
2012
年をエネルギー政策転換の年に!!!!!
★日時:2012520(日) 雨天決行
★時間:集会1 13:00~ デモ 14:00~ 集会2 15:0016:30
★集合場所:代々木公園けやき並木・渋谷側
最寄駅JR 渋谷駅・原宿駅 (徒歩10分)
★主催:NO NUKES MORE HEARTS
★協力:LOFT PROJECT/楽器・音響.com
お問い合わせ:5.20●nonukesallstardemo.com
@に差し替えて送信ください)
プレスお問い合わせ:press●nonukesallstardemo.com
@に差し替えて送信ください)
WEB: www.nonukesallstardemo.com
雨天の場合は雨具のご用意をお願いします。
初デモのかた大歓迎!どなたでもお気軽にご参加ください。
楽器や鳴り物大歓迎!お好きなスタイルでご参加ください!
団体やグループでご参加の場合は、なるべく前もってお知らせください。
集会ではライブやスピーチを予定しています。
集会2部ではオープンマイクも予定しています。ご参加ください!
*集会やデモで、特定の団体や宗教団体への勧誘に準ずる行為はご遠慮ください。
51920代々木公園でワンラブジャマイカフェスティバル開催!
反原発ブース「NO NUKES CAMP」が出現します!お立ち寄りください!
デモ 14:00
ドラムブロック、サウンドカーブロック、コールブロック、お好きなブロックでご参加ください!
サウンドカー出動します!(敬称略)
i ZooM i Rockers Crew feat. 悪霊(Ill East Records
DELI
集会 (敬称略・順不同)
スピーチ
☆横川圭希(オペレーションコドモタチ)
☆おしどり マコ&ケン(夫婦音曲漫才)
☆井上年弘(原水禁)
☆平野大輔(Moms & Children Rescue FUKUSHIMA
Misao Redwolf(イラストレーター/NO NUKES MORE HEARTS 主宰)
ライブ
Likkle Mai
MAGUMILA-PPISCH)&永井秀樹
☆河村博司(ex. SOUL FLOWER UNION)&磯部舞子
okan do zine
Magical Power Mako+千葉麗子
☆サエキけんぞう
☆ママドゥ・ドゥンビア
その他、詳細は〈http://nonukesallstardemo.com/ 〉!


で、これまたお薦めするのが遅くなった、先日発売されたジェロニモレーベルの新作『ネガティブ』


ここで紹介した「ナメられてるにもほどがある」をリード・チューンにした7曲入り。作品を録音するたびに雑味が取れ、音楽がシャープになっていくジェロニモレーベル、その大文字の〈RAW〉な憤怒の歌は、聴いていてとにかくメラメラくる。詳しくはまた後日紹介したい。
インフォ:http://www.gernm.com/ 

あと、おそらくこれも明日日本盤がリリースされるはずですが、ぼくが解説原稿を書いた、12年上半期一押しのルーツ・ロック・レゲエ・アルバム:デラジャー&ザ・ドンキー・ジョー・ボーン『パリス・イズ・バーニング』に関しても、盤が届いたらまた後日。


4.17.2012

レイプ殺人事件

■16日の『東京新聞』夕刊〈大波小波〉。


この〈お粗末で人をばかにした〉訃報記事を書いたというのは『産経新聞』のことだろうか? 
日経も同じ[共同通信]ソースなので、記事内容もほとんど同じで、この〈俗悪なタイトル〉を代表作の筆頭に挙げているが、さすがに記事の見出しには付けていない。

「レイプ殺人事件」監督のC・ミレール氏死去
msn. 産経ニュース
2012.4.5 20:05

クロード・ミレール氏(フランスの映画監督)4日、パリで死去、70歳。死因などは明らかにされていないが、数カ月前から病床にあった。
42年、パリ生まれ。マルセル・カルネ監督らの助監督を務めた後、76年に長編デビュー。代表作に「レイプ殺人事件」(81年)、「死への逃避行」(83年)など。98年に「ニコラ」でカンヌ国際映画祭の審査員賞受賞。85年の「なまいきシャルロット」で当時10代の女優シャルロット・ゲンズブールさんを世に送り出した。(共同)
しかしこのフィルム、原題は『Garde à vue(ガルダヴュ)』で、(被疑者の)勾留のことだ。邦題は『勾留』とか『取り調べ』で何でダメなんだろう??? とオレも思っていた。
邦題が地味? このポスターにそのタイトルはめ込んで、グッとこない? オリジナルがそうなんだけど……。


この映画、例によってイヤ~な刑事役をやらせたら右に出る者はそういない、リノ・ヴァンチュラと、レイプ殺人事件の容疑者(遺体の第一発見者で、その町の公証人を務めている男)役のミシェル・セローという、泣く子も黙る名優二人による、警察署内での緊迫した取り調べ劇だ。刑事は自信たっぷりに落としにかかるが、被疑者の公証人も警察側の描くシナリオのほころびを突きながら、断固として身の潔白を主張する……。その後、映画は公証人の妻を巻き込んだクライマックスで思わぬ展開を迎えるのだが、その妻役のロミー・シュナイダーの顔つきがまた、よかった。


アメリカでジーン・ハックマン、モーガン・フリーマン、モニカ・ベルッチでリメイクされたときのタイトルは『Under Suspicion(邦題:アンダー・サスピション)』だったので(観てないけど)、ストーリーの本筋に沿ったタイトルだと思ったが、フランス版の邦題はなんでこうなったかね。

『東京新聞』〈大波小波〉の記者は、それを〈販売会社が売らんかなの根性ででっちあげたものにすぎない〉と述べているが、そもそも『勾留』じゃ売れないだろうけど、『レイプ殺人事件』ならみんな観たいだろう、買うだろう、と思われてる国民ってどんな国民? オレもその中に入ってんの??


自分が翻訳仕事をする際に、常に“翻訳者の権限”について考えるが、その問題のシンボルとして必ず頭に浮かぶのが――ジョルジュ・バタイユの『Le Bleu du ciel』(英題:The Blue of the Sky)を『青空』としていいのだろうか? ――という問いだ。フランス語のフの字も知らなかった大学時代に熱中して読んだ『青空』が、原題では実は『空の青』だったことを知ったときはショックだった。意味がまるで違うのに、翻訳ってこれでいいわけ!? ……と思ったのだったが、実際問題、これ式の邦訳(『日々のあぶく』を『うたかたの日々』でよしとした例など)は山のようにある。『勾留』が『レイプ殺人事件』でいいんだから、もう何でもいいんじゃね? という感じだが、ムッシュ・ミレールが今この邦題を知ったら、(バリウム飲んで検査台の上で三回転する胃のX線検査のように)きっと棺桶の中でグルグル回ってしまうことだろう。

バタイユの『Le Bleu du ciel(ル・ブルー・デュ・シエル)』で思い出したけど、ザ・スタイル・カウンシルの超有名盤『Café Bleu(カフェ・ブルー)』も、最初にレコード会社の担当ディレクターが変なカタカナにしちゃったから、延々『カフェ・ブリュ』のまんまでいなくちゃならないのも、考えると胃が痛くなりそうなくらい気の毒だ。“お洒落”だの“スタイリッシュ”だの言われて“ブリュ”じゃなあ……、悲劇だなあ。ほんと、最初に日本に紹介する人は責任重大だよ。それが正解になっちゃうわけだから。

最後にBFMTV.comの短い訃報報道を下のリンクからどうぞ。件の『Garde à vue(ガルダヴュ)』も、シャルロット・ゲンズブールも、リュディヴィーヌ・サニエも出てくる。
合掌。


1.20.2011

ユロ氏、パイプを返してもらう

『ル・モンド』紙(01月19日付)

■一昨年、フランスではジャック・タティ(タチ)回顧展覧会のポスターが“検閲”された事件があった。ムッシュ・ユロのトレイド・マークでもあるパイプがアルコールと煙草に関する法律〈エヴァン法〉に抵触するものとして、そのエキシビションのポスター上ではアホくさい風車に置き換えられてしまったのだ。


煙草の広告を規制するだけでなく、こうした過去の偉人の肖像が改めて公に使用される際にもその写真から煙草やパイプを取り上げるというのはいかにもやり過ぎで下らないし、フランスでは同じ法律によってこれまでにも、セルジュ・ゲンズブールからも、ココ・シャネルからも、ジャン=ポール・サルトルからも、アンドレ・マルローからも煙草を横取りして揉み消してしまったのだから、もうこうなると“文化の冒涜”である。

ということで、フランスの国会では、そういうのはやっぱりいかにもやり過ぎでした、という話になり、めでたく昨日の19日、法律の紋切り型の適用は改め、守るべき“文化遺産”は守ろう、ということに、あいなったようだ。

『ぼくの伯父さんの休暇(Les Vacances de Monsieur Hulot)』(1953年)

たまたま先日ハンフリー・ボガートのことを書いたばっかりだったが、彼が巻き煙草を親指と人差し指で(“ボギー・スタイル”で)はさんでいる写真の煙草を……たとえばチュッパチャップスに差し替えたりしたら、それはもう、天地がひっくり返ってしまう。

1.14.2011

ボガートだぜ、頼むよ


■今日1月14日は何の日かというと、ハンフリー・ボガートの命日である。毎年1月になるとボギーのことを思い出す。オレにとって、ボガートは大事だ。だから命日まで覚えている、というわけでもなくて、おふくろの誕生日の翌日だからたまたま覚えているだけなのだが。

それから、毎年〈浦安市では、ディズニーランドで成人式〉的なテレヴィ・ニューズを見ると、その瞬間にも必ずハンフリー・ボガートを思い出す。当時も半分ジョークだったからこういうところに書くことも恥ずかしくはないのだが、オレは自分の成人式の日に吉祥寺の小さな映画館《ジャブ50》で『カサブランカ』を観ていたのだ。区から成人式の招待状が来たけれど、もう当時からそういうお役所仕事は綺麗に無視することにしていたので(それだけじゃなくて、シューカツとか、そういう、みんなゾロゾロ揃ってやるようなことは全部敬遠することに決めたので)、成人式にプレゼントもらいには行かず、自分だけの成人式をやろうかなと思ってたまたま情報誌を見たら《ジャブ50》で『カサブランカ』をやってたので、そのとき既に2~3回は観た映画だったけど、大人の手本、ということでボギーの姿を拝みに行って、帰りにどっかの安いバーに入って一人でウィスキーを飲んで帰ってきたという、そういう正しい成人式を執り行ったので立派な大人になることができた。

で、今年の1月14日は、またまた絶妙なタイミングでボギー・デイになった。少し前にAmazon.co.jpでボギーのDVD3枚セットを見つけて驚き、品切れ中だったけど注文しておいたやつが、ちょうど命日の今日、届いたのだ。

何に驚くって、この値段である。たまたま最近イルコモンズさんがフランク・キャプラの『我が家の楽園』について書いていて、“追記”でそのDVDが廉価(¥500)で買えると書き添えているが、まさにこのボギー3本組もそれと同じシリーズ。しかしこっちは名作3本揃って税込¥999なのだ。オレの成人式は¥333で済み、命日分は¥666で感じ入ることができる。どれも何度も観た映画だけど、手元に持っていたいものだったし――むしろハワード・ホークス監督の『三つ数えろ』と、ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』の2大ハードボイルド名作の方が『カサブランカ』より好きなんだけど――、それにしてもこの3枚組が¥999っていうのは、ある意味いい時代なんだと思わざるを得ない。

といってもひとつ文句あるのは、このDVD出してる板橋のファーストトレーディングって会社、全然ボギーにリスペクトないのね。3本ともクレジットが〈ボガード〉に濁ってるんだよ。ああ、なさけねえ……オレの大人の手本が……。こういうヤツらに限って、〈bag〉を〈バック〉って言うんだぜ。

ボギーのハードボイルドからジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(世界で初めてボギーへのオマージュを表明したフィルム)に(それも20歳頃に)行き着いたオレは、その少しあとで『ボギー! 俺も男だ』にも流れ着いて(笑)ウッディー・アレン好きになるわけで……と、思い出して調べてみたら、これだけ日本でDVD出てないじゃん。あと30年くらい生きると、これも500円で買えたりするのかな。


9.13.2010

また、アイドルの死



■谷啓逝去のニュースは、シュガー・マイノット(とにかく若過ぎた)の死ほどではないにせよ、結構ショックだった。
が、昨夜、またまたショックなことに、クロード・シャブロルの死を知った。まさに昨日、9月12日の早朝、パリで他界したそうだ。
享年80歳。

いわゆる《ラ・ヌーヴェル・ヴァーグ》の映像作家たちの映画は、その周辺のアニエス・ヴァルダ、ルイ・マルや、ジャン・ユスターシュあたりまでも含めてたくさん観たし、好きな作品は数々あるが、でも、その中で一番好きな監督は誰かと今、考えると、ぼくの場合はジャック・リヴェットとこのクロード・シャブロルじゃないかと思う。

まあまあのヒチコキアンのぼくにとっては、本格的に映画を撮り始める以前、つまり『カイエ・デュ・シネマ』誌の映画批評家時代のシャブロルが、同志エリック・ロメールとの共著で世界で初めての本格的なヒッチコック論を出版したことからして既に尊敬に値する。世のアカデミックな映画批評家は誰一人として、“娯楽映画の監督”ヒッチコックに論じる価値を見い出さなかった時代に、である。
ヒッチコックのガイド・ブックとしては、フランソワ・トゥリュフォーがヒッチコック本人に全作品の解説を求めてそれを構成した『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』(1966年初版/78年増補版)がまさに定本の名著だが、シャブロル&ロメール著の『Hitchcock』は1957年に出された本ゆえに『知りすぎていた男』や『間違えられた男』までのヒッチコック論であり、つまり同書では『めまい』にも『北北西~』にも『サイコ』にも『鳥』にも触れられていないにも関わらず(実はそんなこととは無関係に)今も(特にフランスでは)映画を学ぶ人間必読のバイブルとなっている。この本に書かれている、ヒッチコックの構図やカット割りや心理描写に関するシャブロルとロメールの執拗な分析を味わうに、特に(彼もサスペンス映画を多数撮った)シャブロルの鋭角的なのに切り口の奥が深い表現描写がヒッチコック直系の美意識に貫かれていることを、そしてその古典様式を継承しながら自分のスタイルを作り上げていった職人のしなやかなプライドを、改めて確認することになる。奇しくも、そのヒッチコックの“一番弟子”も、師匠と同じ満80歳で今生をクランク・アップしたわけだ。

(Éditions Universitaires / Ramsay)


《『Poulet au Vinaigre(1984)』予告編》

50本超の長編を撮っているのに、日本では何故かシャブロルはそれほど紹介されてこなかったことが残念だ。ゴダール『勝手にしやがれ』の演出監修がシャブロルだったこともあまり知られていないだろう。もしかしたら、ヌーヴェル・ヴァーグ作家の作品に“分かりやすい”難解な芸術性を求めてそれをありがたがる風潮があったために、シャブロル映画のエンターテインメント性は作家の仕事としては格下に見られたのかもしれないし、あるいは、彼はフランスの田舎のブルジョワ階級(家庭)を題材(舞台)にすることが多かったせいで、日本人には親しみも薄く、フランス映画としてシックでもスタイリッシュでもない、という捉えられ方をしたのかもしれない。

でも、その田舎のブルジョワ階級の、世間体を気にして外面を取り繕い続けるも、その実、人生にやるせない不満を抱えていたり、家族間に不和があったり、夫婦間にすきま風が吹いているような家族の描写の中に人間の悲しい本質をえぐる作風にこそ、現代社会に対する彼流の批評眼がギラギラしていて面白かったのだ。往々にしてB級映画タッチの、あるいはテレヴィチックなホームドラマ風の軽快でひょうひょうとしたポップな絵作りで普段“作家の映画”など観やしない大衆の視線を引き寄せ、その後、渦輪と陰影の織りなす心理劇に引き込み、観終わったあとに「オレの中にも、もしかしてこういう部分が潜んでいるんじゃないか……?」と思わせるのが彼の真骨頂ではないか。そんな平易な映像・編集の“可読性の高さ”の行間に、厳格な演出に基づく豊満な心理描写が横たわっているところが、言うなればパルプ・フィクションと古典文学の垣根を取っ払ったシャブロルの魅力である。

さらには品のいいデコやエレガントな小物使いも気が利いていたり、フレイム・ワークがかっこよく、きれいなものはちゃんときれいに、おいしそうなものはちゃんとおいしそうに、怖そうな目はちゃんと怖そうに映す、美醜に対する頑固なセンスから生まれる映像には、安心できて、心躍るカットが満載だった。

役者としてもコミカルな存在感があって親しまれたし、インタヴューを受ける際の飾らない語り口も人気が高かった。

個人的なことを言えば、イザベル・ユペールがぼくのフェイヴァリット俳優のひとりになったのも、シャブロルの描いた彼女の冷たい美しさのせいだ。

またすぐに真っ暗い映画館でシャブロルが観たくなった。


《シャブロル54本の映画の予告編を繋げて3分間に編集したもの》


《2009年11月のインタヴュー》

1.07.2010

2010年もエロな年

■2010, l'année héroïque.... もう既に日本でもしばらく前からファンの間で話題になっている、我らがセルジュ・ゲンズブールの伝記映画『Gainsbourg (vie héroïque)/ゲンズブール(ヴィ・エロイック...は、英雄的人生、大胆なる人生、ってところか)』は、フランスでいよいよ今月20日封切り!

このオフィシャル・サイトはしばらく前からオープンしていたし、(そのトップ・ペイジでも観られる)予告編↓も、もう観た人が多いんじゃないだろうか? 



ゲンズブールを演じるエリック・エルモスニーノ(Eric Elmosnino... もしかして“エルモニーノ”じゃないのかな? 正しい発音は不明)の特に鼻のラインがゲンズブールに似てるのと、何よりレティシア・カスタ演じるブリジット・バルドーが(映像はまだ数カットしか明らかになっていないが)ドッキリするほど似ている瞬間がある。

ゲンズブールの伝記だったら、他にも当然、ジェーン・バーキンやバンブー、ジュリエット・グレコらも出てくるわけで、演じる女優たちがどれだけ本物に似ているかも話題の的。その点に焦点を当てた「女たち」と題されたティーザー映像がこれ。2分ちょっとだが、実にいい感じ。バーキンはどうもカルラ・ブルーニだが・・・まあいいや。バンブーは雰囲気バッチリ。

Veuillez installer Flash Player pour lire la vidéo

それから、映画から演奏シーンをカットしたファースト・クリップがこれ。曲は“キャベツ頭の男”歌う「Nazi Rock/ナジ・ロック」。



待ち切れないね、この映画。日本でも今年公開されるらしいんだけど・・・。


6.04.2009

映画(試写)





■映画評を書く仕事を、最近あまりやらなくなった。『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』には都合1年半近くかかってしまったのだが、時間に追われて本を作っている期間は、誘っていただいた試写に行って、そのレヴュー原稿を書き終えるまでの間に本の作業が途切れてしまうことがあまり望ましくない。それに純粋に趣味で観たいフィルムは自費で観るべきで、それなら別に急ぐ必要もないし、その多くは三軒茶屋シネマか三軒茶屋中央劇場に落ちて2本立てになるから、そのときにまるっきりノー・マークの映画と抱き合わせで1000円ちょいで観るのが、ぼくにとって正しい。“二番館、三番館に落ちて2本立て上映”という様式に21世紀の今も・・・というか、そんなのが稀になった今だからなおのこと、愛着を感じる。だいたい、“落ちる”という動詞をここまで愛おしく感じることは、昨今、他の文脈においてはほとんどない。


もう1つ、試写会に行かなくなってしまった深刻な理由がある。ぼくは『ミュージック・マガジン』で毎月レゲエのアルバム・レヴューを担当している(立派な大人は、“させていただいている”って言うんだっけか)。そのレゲエのレヴュー対象音源は毎月、編集部からドスンと送られてくる。ぼくはアイテムを一切選ばず、送られてきた箱を開けて片っ端から、先入観を持たず機械的に聴いていくのだ。で、今もたまに映画評を書いているのも『ミュージック・マガジン』にだが、その場合は、編集部から依頼されることもあれど、基本的には自分の選択に基づいて試写を観て、これは紹介したい作品だと思ったときに編集部と相談する形を取る。つまり、試写を観たのに自分からレヴューする気にならなかった場合はそのまま観たっきり、である。というか、そういうケースの方が数としては多く、結果的にタダで観させてもらうことになり、若干気が引けることになる。“本職”の映画評論家なら、それがどんなフィルムだろうとあらかじめどこかに“書く枠”が用意されてるんだろうし、嫌いな作品については論じない、というスタンスでは食べていけないだろうから、当然どんな作品でも“プロ”なりの書き方、論じ方があるんだろうが、ぼくの場合はあくまで映画は副次的な対象だし、わざわざ否定的な感想・意見を書くために誌面枠をもらうというのも気が乗らない。そこまでして仕事を得るというのも、そもそも感じのいいことではない。


さらには、試写を観終わった直後に、会場で配給会社の人から感想を求められるのも、全然好きになれなかった作品の場合には相当苦痛なものだ。そういう映画を最後まで見通すこと自体に疲れているのに、先方のその大切な商品に、なんとかぼくが好意的にコメントできる要素を探したり何かをこじつけたりしながら、その立ち話の場を取り繕うのもさらに疲れる。
京橋駅近くの映画美学校(建物も学校内も雰囲気がいい)の試写室に行くのは大好きだが、一度、そこで巨大資本が投じられた大味・大仕掛けのハリウッド映画の試写を観て暗澹たる気持ちになり、配給会社の人と目が合わないようにこっそり学校を抜け出して駅に向かったら、後ろから大声で名前を呼ばれ、地下鉄の階段の途中まで追っかけてこられたことがあって、そのときは凄くしんどかった。
あるいは、試写会場からうまく逃げ出し、気を取り直して食べたい食材を買って家に帰り、好きなレコードをかけウィスキーを飲みながら夕食の支度をして気分も直ったと思った瞬間に電話がかかってきたこともあった。「本日は、お忙しい中、お越しいただきましてありがとうございました! それでー、いかがでした?」・・・。外まで追っかけてきたり、家に電話までしてくるのは、ほぼ例外なく、バジェットのどデカい娯楽作品を鳴り物入りで宣伝している大きな配給会社の人だ。そういう“真剣”なお仕事に、興味本位で顔を出したこちらが悪かったんです、すみません。
「つまんなかった」とだけ言って話が終わるなら簡単だが、実のところ、「面白かった」「素晴らしかった」の理由を述べるより、「つまらなかった」の理由を述べる方が、会話の上では遥かに難しいのである。


というようなことが何度も重なったせいで、今もいろいろな会社の方々が試写の案内を送って下さるのに、観たあとの様々なストレスが苦痛で、ほとんど試写会に行かなくなってしまった。


しかーし、このブログを始めてひらめいたのだが、本当に観たい映画だけ観させてもらって、たとえ雑誌で書かなくても、ここで紹介すれば何かしらのお手伝いにはなるだろうし、こちらの気分としても、タダ観の後ろめたさを感じなくて済む。初めてこのブログの具体的なメリットに気がついたので、ちょっと気分がいい。


実は最近届いた数々の試写のお誘いの中で、どうしても観たいものが2本あったのだ。どちらもぼくにとっては“間違いない”作品で、その2本とも、ザジフィルムズさんの配給作品だ。『地下鉄のザジ』(これを配給するのに、ザジフィルムズさん以上の会社は他になかろう!)は公開50年後の完全修復ニュープリント版だというから、今まで10回くらいは観たけど、11回目以降はニュープリント版で観られるわけだ。『地下鉄のザジ』は熱狂的ファンの多いいわゆるカルト・ムーヴィーで、だからファンは原作者のレモン・クノー(レーモン・クノー)のこともご存知でしょうが、『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』には、クノーのかの有名な著作『文体練習』を舞台化したもののサウンドトラック盤にヴィアンが書いた解説原稿も入っていますのでお楽しみに。・・・それからパティー・スミスのドキュメンタリー作品『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』も、彼女の知られざる素顔を垣間見られるという前評判を聞いていたので楽しみにしていたのです。ザジフィルムズさん、タイプです。どうぞよろしくお願いします。