■とある雑誌から、もうすぐ公開になるボブ・マーリー、オフィシャル・ドキュメンタリー映画『ボブ・マーリー / ルーツ・オブ・ レジェンド』のレヴューを依頼されたので、感想を好きに書いたら、そのぼくに発注された記事がいわゆる〈出稿記事〉だったらしく、原稿を映画配給会社がチェックした結果、その内容が問題視され、“ダメ出し”された。で、編集部も食い下がってくれたみたいなんだけど、結局ボツになった(実は、編集部から一度原稿の訂正を依頼されたけど、直す必要を感じないので断った)。
そもそもこれが〈出稿記事〉であることをオレは知らされなかったし、知らされていたら仕事として受けなかった(観る前に、聴く前に、読む前に、“褒めなくちゃならないことだけ決まってる”原稿なんて、不器用なオレには書けない)。
ま、「オレのもらうのは原稿料? それとも褒め賃?」ってことを最初に問わなくちゃならない世の中らしい、ということを学べた(46歳)真夏の事故ということで片づけよう。ただし、書いたものはもったいないので(ちゃんと真剣に書いてる、当然ながら)、ここに公開します。雑誌名さえ明かさなかったら迷惑をかけることもないし、倫理的な問題はないと思う。どうせ仕事じゃなくとも、この映画を観たらここに同じ感想は書いただろうから結果的には同じだし、正直に感想を書いた方が、〈マーリー最高! 感動の涙が止まりませんでした! 彼の歌は永遠に鳴り止まない! 有名人A〉みたいな安い“感動”宣伝よりもリアリティーがあって、むしろみんな映画が観たくなるんじゃないかと思うけどね。
念のため確認しておきますが、ぼくは「このマーリーの映画を観ることをみんなに薦めるか? 薦めないか?」と問われたら、絶対に薦めます。観る価値がある。ただ、観れば各自自分なりの感想を持つことは自然だろうし、オレはそれを書いたまで。
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ジャマイカ独立50周年である2012年、ボブ・マーリーのオフィシャル・バイオグラフィー・ムーヴィーが世界で公開される。日本は欧米諸国に遅れること約半年、この9月に公開となる。結論から書くと、すべての読者にこの映画を観ることを薦めたい。144分まったく飽きさせないエピソードと映像の連続に、体験して損だと感じさせる要素はまったくない。そしてこの、スクリーンに向かっている時間の充実感を味わわない手はないと思うからだ。
マーリーに関して持っている知識は、人によってその質も量も違う。だから万人が満足するドキュメンタリー映画を作ることは事実として難しく、ならばこの作品が一体マーリーについてどの程度の知識を持っている人たちをメインの対象として作られたのか? それがこの作品の深さや質感を規定する第一のものだ。ぼくが観たところ、これは明らかにマニアを対象にしたものではなく、没後30年を過ぎた今後もより多くの人々にマーリーを“正しく”知ってもらうため、語り継いでもらうためのマニュアルとしてのドキュメンタリー映像をオフィシャルに制作したもの、という印象を受けた。上映時間2時間24分は決して映画として短いサイズではないが、それにしてもマーリーの生涯を余すことなく伝えたり、マニアックなエピソードまで多数盛り込むのに充分な時間であるはずはない。だから本誌読者のような音楽ファンならば、まずはこの144分に映っているものを存分に楽しみ、その後、この144分にまとめあげるために、何を語らないことにし、何を削ったのか? についても考えてみることを薦めたい(マーリーについて一定量以上の知識を持っている人ならば、各自自然に考えてしまうだろうけれど)。
それから本作にはマーリーの発言が随所に出てくるが、彼の発言のどの部分を切り取り、それをどんな場面に挿入するかによって、その言葉が与える印象は変わってくる。それが編集というもので、つまり編集作業自体がメッセージなのである。だからこの作品はマーリーのメッセージを伝えると同時に制作側(この場合マーリーの遺族側の、と言い換えていいだろう)のメッセージをも伝えている。我々はマーリーの生涯が純粋に144分間に凝縮されたものを観るのではない。これは明確な意図と方針に基づいて編集されたマーリーについての144分間の伝記なのである。その点に留意して観るべきだと思う。そして以下が、ぼくが個人的に抱いた感想である。
映画は海とボートのカットから始まるが、ありがちなジャマイカのステレオタイプな太陽と海の映像かと思いきや、次のカットでガーナのケイプ・コースト城が映し出され、そこが西アフリカだということが分かる。ケイプ・コースト城は、奴隷貿易の拠点として使われたことで名高い要塞だ。このマーリーの伝記映画は、地下牢の劣悪な環境に置かれ、その身を売り飛ばされる瞬間を待っていたアフリカ人たちの心情を想起させる場所の映像を冒頭に置いている。シークエンスは、そこの扉を通った“奴隷”たちが二度と故郷に戻ることができないことから名づけられた〈Door of No Return〉のアップへと続き、その扉を開けると、マーリーがステイジで「ジャー・ラスタファーライ!」と叫ぶカットにつながって、この伝記映画は幕を上げる。この最初のシークエンスは、本作の中で最も印象深いもののひとつだった。
それと並んで興味深かったのは、マーリーの出生地セント・アン教区ナイン・マイルで、同地の様子や、バニー・ウェイラーが最初にマーリーに出会った瞬間について語るくだりに続き、母セデラ・マーリー・ブッカーや同地に住むボブのいとこの証言によって、父親ノーヴァル・マーリーの人物像について語られるところだ。“黒人側”からの話だけでなく、父親側の親戚にも取材しており、父ノーヴァルの人となりが〈第二次大戦でインドに赴任し戦争神経症になった、酒浸りで、型やぶりの男〉として語られている。つまり今までは情報の少なさからあまりはっきりしたイメージを抱けなかったマーリーの父親について、その存在だけでなく、人間味にまで言及し、白人側の家系(の顔)までも登場させることで、この作品はマーリーの中の“白人”にはっきりスポットを当てている点に注目した。つまり、アフリカ人“奴隷”の末裔と白人種との50%/50%の混血であることをきちんと強調しているわけだ。本作を、タフ・ゴングの映像部門《タフ・ゴング・ピクチャーズ》が白人の監督ケヴィン・マクドナルドと組んで制作したことが象徴的に示している気がするが、バラク・オバマ以降の“混血の新時代”に、マーリーの混血性を世界の融和のひとつのシンボルとして提示し直すという意味を、この映画にメッセージとして持たせたのだろう。
しかしながら幼少〜青年期のマーリーは、ジャマイカにおいて黒人でも白人でもない、茶色の肌の“ハンパ者”扱いされ、ときには“拒絶”されて、たいへんなつらい思いを味わっていたことがバニー・ウェイラーらによって語られている。“よそ者”だと差別された少年が自分の存在意義を見つけ、その道を歩み始め、遂には成功を手にする、という成功譚の前段にそうした乗り越えるべき苦難が示されるのはクラシカルなストーリー=テリングの定石だが、この映画は、その成功の原動力として、マーリーが〈自分は黒人でも白人でもなくラスタファリアンだ〉という点に自分のアイデンティティーを見出し、超人種的な存在になっていった、という描き方をしている。マーリーの「オレは黒人の側でも白人の側でもなく、神の側にいる」という発言が力強く引かれているのはそのためである。
ぼくはそこに本作品の最大のポイントを見た。最後まで観ると、そのポイントは、次のように肯定的に展開されていることが分かる。すなわち、マーリーはラスタファリアニズムと出会い、神が黒人も白人もお作りになったのだから、その両者から生まれた自分が自分の出自を恥じる必要はないのだと悟ることで救われ、ラスタファリアンとしてレゲエ・ミュージックを歌い、スターになった。神の御名の下に、世界はひとつであるべきだ(ワン・ラヴ、ワン・ハート)、というそのマーリーのメッセージは今も世界中で尊重され、人口に膾炙している、というものである。映画の最後にも、マーリーの「白人も黒人も中国人も、すべての人類が共に暮らすことが俺の唯一の望みだ」というメッセージが置かれて、そのポイントを補強している。
しかしこの映画では、その展開の間にきちんと語られていないことがあり過ぎることも事実だ。そもそも白人と黒人の間の不和(特に黒人が白人に対して抱く敵意、わだかまり)はどこに起因するのか?(昔から仲が良いのであれば、黒人と白人の混血がつらい思いをすることはないのだから)。本作はそこを冒頭の〈Door of No Return〉を大写しにすることだけで済ませてしまっているが、ならば奴隷貿易は何のためだったのか? それは誰がどんな社会/時代背景の下に主導したものであったのか? そこにキリスト教はどう関わったのか? といったことを説明し、そうした状況のカウンターとしてラスタファリアニズムが存在することを、つまり〈Door of No Return〉とラスタファリアニズムとの関係を明確に示さなくてはならなかったのではないか? 北南米、西欧やアフリカの観客に対しては西欧帝国主義と奴隷貿易についての説明など必要ないのだろう。しかし彼(女)たちがみなラスタファリアニズムの肝を理解しているはずはない。ましてやそれらの事柄のいずれに対してもさほど親和性を持たない日本の観客は、この映画が省略している事柄を、映画を観ながら頭の中でどれだけ補完し得るのだろうか?
白人と黒人の間の歴史を明示せず(つまり両人種の間に横たわる問題点をつまびらかにせず)、この2012年現在に至っても、欧米先進国(G8/日本含む)は経済的途上国に対して新自由主義という名の新種の帝国主義政策を取り続けており、そうした権力が世界銀行や IMF を手先に操って途上国から搾取し続けている事実にも全く触れていない。アフリカなどは現在、〈Door of No Return〉を通るまでもなく、その自分たちの母なる大陸にいながらにして西側の“白人”から搾取され続けていることを、そしてジャマイカも搾取されている国のひとつだという点をまったく描いていない。要は問題の根源を示さないままでの、〈マーリーはすべての人類が共に仲良く生きることだけを夢見ていた〉という話の締めでは、それはあまりに子供騙しなのではないか、という印象は正直言って拭えないのだ。
そうしたナイーヴな政治問題を極力扱わず、よって世の中のどんな政治的な動きに対してマーリーはどう反応し、そこでどんなメッセージを書き、述べたのか? についてもほとんど触れず、西欧白人至上主義の歴史も、ジャマイカに入植した国々も、そこへアフリカ人を拉致してきた者たちも名指しで糾弾することなく、ジャマイカの二大政党間の内紛は描くもののその背後にアメリカが存在していることもおくびにも出さず、自分の権利を手にするために「Get Up, Stand Up」しなくてはならないような、弱者を虐げ続ける社会構造に関しても言及しない代わり、この映画は、マーリーの生き方も、その歌のモティヴェイションも、そのほとんどすべてを〈ジャー〉と〈ラスタファリアニズム〉に回収してしまう。混血マーリーの存在は未来のためのポジティヴなシンボルにはなり得るが、過去の、そして現在の事実認識とその反省なくして未来の世界平和などあり得ないだろう。さらには、人種間の問題も、みんなが特定の「神の側に」立てば解決の方向へ向かい、みんなが幸せになれるかのような印象を抱かせかねない編集は、マーリーの音楽の社会性に照らし合わせると、制作側の偏狭な思惑を感じないわけにはいかない。それが悪い、というよりも、そうしたことを敢えて描かないことに決めた作品なのだと、ぼくは認識した。つまりこの映画は、誰も敵を作らないことに留意し、世界中のあらゆる政治思想を持った人々に、そのできるだけ多くに観てもらえるように作ったのだろう、と。この“オフィシャルな伝記映画の中のマーリー”は、自らは問題を何も指摘せず、ただ理想を述べる平和のアイコンとして編集されたのだ。
この映画で制作側が意図的に伝えなかったことがあるという事実は、セデラ・マーリーやジギー・マーリー(ともに“正妻”リタとの間に産まれた子供=メロディー・メイカーズ)はきちんとボブの子供として登場するが、本作に再三登場する重要人物シンディー・ブレイクスピアーがダミアン “ジュニア・ゴング” マーリーの母親であることは教えてくれないことからも容易に想像がつくだろう。また、この作品で採用されているマーリーの発言はどれも明快で分かりやすいものばかりだが、しかし実際のマーリーの発言には、容易に理解できないような禅問答的な言い回しもたくさんあったのだから、こんなに常にシンプルな人ではなかったはずだ。
とはいえ、それでもこの作品がマーリーの人間的な魅力を多角的に描き出していることは全く否定できない。それすら編集されたものであるにせよ、彼の人となりはかなりありのままに描かれているのだろうと想像できる。世界中がこれまでに共有してきたマーリーのイメージはここで棄損されることなく再確認されている印象を持つのだ。つまりこれは世界を驚かせるための作品でもなければ、世界に問題提起する作品でもなく、偉大なるアイコンとしてのマーリーを永久に保存、伝承するためのものなのである。とはいえ、女性に対してはフェアでなかった、というような、愛人が語る耳の痛い発言を盛り込むことには躊躇せず、聖人君子ではないマーリーの人間くささを感じさせもする。
数々の証言者の発言はどれも貴重だ。特にバニー・ウェイラーやウェイリング・ソウルズの“ブレッド”・マクドナルドの饒舌振りはうれしい。スタジオ・ワン時代を中心とした初期のエピソードは特に充実していると思う。ライヴ映像に関しては、どれも充分に満足できる長さではないものの、貴重なものも随分出てくるし、映像資料としては満足がいく使い方がなされている。ただし、故人であるとはいえピーター・トッシュの発言が出てくるのはたったの一箇所だったり、スティーヴン、ダミアン、キマーニ、ジュリアンらの息子たちは全く登場しないし(子供っぽい大人の事情があるのかもしれない)、マーリーと同時代の他のレゲエ・アーティストに言及する場面もない。つまり“画角”は実に狭い。ただ、ひたすらにマーリーを描くことで、孤高の存在感を強調しているようだ。
立ち上がり、世の中にプロテストするその相対性の中に存在したマーリーなのに、その人そのものを愛することが目的化している作り、遺族側が作った未来用のプロモーション映像的、あるいは出題者タフ・ゴングが自ら用意した模範解答的ではあるけれど、それでも、というか、むしろそれゆえに、この作品はマーリーの人としてのチャーミングさにピュアにフォーカスしていると言えるだろう。いずれにせよ、マーリーのファンならば観ないで済ませるという選択肢はない。
鈴木孝弥
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