5.29.2009




■弱肉強食を地で行く新自由主義経済とグローバリゼイションの弊害は、昨年の小麦や原油燃料価格の高騰、そしてウォール街発の世界同時金融危機へと到ることでまたしても誰の目にも明らかなものとなり、さらには現在の豚インフルエンザ問題の原因にもなっていると言われる(http://attaction.seesaa.net/article/119087333.html )ように、たった1年の間でもこれだけ世界中を(それも人間の生活の基本的なレヴェルにおいて)混乱におとしいれている。


そしてそのシステムは、世界のほんのひと握りの人間に巨万の富を集中させ、一方でそれ以外の市民のおそらく大半が、自覚のある・なしに関わらず、その犠牲者となっている。現在、地球の全人口の2人に1人が1日2ドル以下で暮らしているし、国内に目を向ければ、GDP世界第2位の“経済大国”の、その経済状況については周知の通りだ。


世の中を眺めていると、こういった諸問題に直面したときに多くの人たちは、《ガソリンの、小麦の値段はいつ元に戻るのか?》《いつまで耐えればこの不況が底を打って、日本経済の景気が持ち直してくるのか?》《いつになったら新型インフルエンザ禍は終息するのか?》という、極めて近視眼的な見通しにその注意の大半を向けているように感じる。もちろん来週・来月の生活を案じているサヴァイヴァーは、将来の話では空腹は満たせない。しかし、この目先の危機を脱して、その先に再度好景気のピリオドがやって来たとしても、毎度のことながらそれが永遠に続くはずなどなく、同じ経済システムに依存している以上、またいつか、遠からず、今のような状態に陥るだろう。そして、生産性のみを重視する畜産の多国籍企業が、エサや衛生管理面でのコストを今のようにケチり続けていけば、また何らかの動物からまたもや未知のウィルスが生まれ世界をパニックにおとしいれるだろう。(・・・というか、狂牛病に鳥、豚と、この15年間脅かされっ放しで、それら日本の食卓における重要な3動物に総て深刻な問題が生じたんだから、もうそろそろ真剣にその原因について学び始めてもいい頃なんじゃないかと思う)。


結局、そういう新自由主義の効率性のみを追求する博打経済に振り回されて一生を終えたくない人間は、何かオルタナティヴな世の中を夢想し、次にその実現性を模索することになる。


アナキズムはその中の可能性の1つであり、その考え方は、東西冷戦終結後の世界地図を無慈悲に塗りつぶしてきた新自由主義、グローバリゼイションの暴威に対する抵抗手段としての、多くの有力なアイディアの集合体といえる。


その今日的なアイディアについて学び考えるための良書が、今年に入ってからも次々に出版されたので、一般教養課程A群の履修生が最近購入した参考書4冊の表紙をスキャナーに載せてみた。これら4冊総てが、実際のところ今年の2月中旬からたった1ヶ月半の間に出版されている。そんな短期間にこれだけの充実した本の出版が重なるのは、出版社にとって年度末に“数字”が欲しいという事情はあるにせよ、そもそもこのテーマに対する世間の関心がここにきて明らかに高まってきていることを示している。この日本でも、新しい考え方による“もう1つの世界”を渇望する声が徐々にまわりの同じ声に共鳴していき、遠い地鳴りのように、今はまだ静かだけれど、しかし確実にこの国を地下から震わせていることを実感させる。別の言い方をすれば、終わりのないAの季節が、少しずつ、その盛りに近づいている感じだ。


で、ここまで読んでくださったみなさんの中には、靴の中の足がかゆい人もいるだろうと思われるので、『新しいアナキズムの系譜学』の一部を引かせてもらうことにする。


ネオリベラリズムが地球的な危機をもたらしている現在の文脈において、「アナキスト的基本原理(ルビ:エートス)」が、最も具体的に表明されたのは、PGA (People's Global Action Network)の五項の指針 (hallmarks)においてである。


(一)資本主義、帝国主義、封建主義、および破壊的なグローバリゼーションをもたらす全ての通商、合意、制度、政府へのはっきりした拒絶。

(二)父権制、人種差別、そしてあらゆる宗派の宗教的原理主義を含む、全ての支配と差別の形式とシステムを拒絶する。あらゆる人間存在の完全な尊厳を信奉する。

(三)多国籍企業が唯一の政策決定者であるような、偏向した非民主主義的な組織に陳情すること・・・そこに大きな効果があるとは思えない。だから対抗的な姿勢を貫く。

(四)生全体の尊厳、抑圧された人々の権利、グローバル資本主義への地域的なアルタナティブの構築・・・それらを極大化する抵抗の形式を唱導する。つまり直接行動と市民的不服従と諸々の社会運動への支援を呼びかける。

(五)脱中心化と自律を基本にした組織論。


『新しいアナキズムの系譜学』高祖岩三郎著 P.211~212

5.28.2009

癒しい

■なんだか、昨今の“癒し”という言葉に、

得も言われぬストレスを感じる。


“おしゃれ”という言葉をみだりに口にするのって、

“おしゃれ”という感覚の対極にある行為のように思える。


でっかい声で叫ばれる“エコ”は、

往々にして濁った“エゴ”に聴こえる。

5.26.2009

買いもの

カエターノ・ヴェローゾ/オホス・デ・ブルッホ

大西ユカリ/アラン・トゥーサン


■昨日、約3週間ぶりにタワーレコードヘ行った。新宿店でも、月曜の午後なんかは、試聴機が自分のもののように使える。4時間近く各階をうろちょろして、買おうと思っていた新譜をチェックした。期待していたハレドとザップ・ママは、結局買わなかった。どっちも20分以上聴いてよく考えたけれど、非富裕層のオレには避けるべき散財になる可能性が高い(それほど聴き返さないだろう)と判断した。25年もレコードやCDを買い続けていると、おのずと自分の購入基準がいろいろとできてくるが、中でも最初に考えるのは《通して5回、聴き返すかどうか》だ。今回のハレドとザップ・ママとは、3回デートして別れてしまうようなイメージを持った。ふるのではなく、オレがふられるのだ。ふられた相手と自分の部屋でしばしば目が合うのは、できればもう終わりにしたい。もう既に何百人もいて後悔の念に苛まれている。

イギー・ポップは(もう)試聴機に入っていなかったので、昨日一番迷った末に、これも奥歯を噛んでやめにした。

それから、オレはLPフォーマットの時代に作られた作品は、基本的に探してLPで買う主義である(高価な盤は例外だが)。盤質がそれほどひどくないなら、たいていはLPの方が音がいいし、第一、アーティストはどこでA面を終わらせるか、何をB面の頭にするか何日も悩んだだろうし、ジャケットのデザイナーは 30cm四方の中で表現したのだし、それらを含めて作品だからだ。ということでなるべくなら80年代以前の音楽をCDでは買いたくないのだが、それでも古い音源をディジタル・リマスターしたもので聴きたいものは山ほどあるので、タワーレコードに新譜を買いに行っても、毎回何か古い音楽も1枚は買ってくる。で、昨日は長らく欲しくて買わずにいたハンク・ウィリアムズ42曲入り名曲集を買った。こういう死ぬまで聴き返すことが分かっている間違いのない買いものは、買う瞬間のスリルには欠けるが、それとは別種の、質のいい静かな興奮がある。

好きな本屋であるジュンク堂の新宿店でも何冊か本を買ったが、一番の目当ては高山なおみの新刊『チクタク食卓(上)』だった。テレヴィの料理番組でも、司会者が試食する前に、作った自分が味見して思いっきり「おいしい!」と言うのがたまらなくかわいい人だ。そんな人が自宅で作って食べてるものを自分で記録した本なので、かわいい本でないはずがない。装丁も紙質もページの作りも彼女らしく、こういう買い物も、とても気分がいい。

上機嫌で家に帰ってきたら、次号の『ミュージック・マガジン』のクロス・レヴューの依頼メイルが来ていて、そのネタ7枚の中にイギー・ポップが入っていた。


5.22.2009

Gratos #1 (zine)

■世界A級のスタイリッシュな新自由主義バビロン・シティー東京の中でも、今、最もイケてる人種の間で毎月争奪戦になる、最高にオシャレなフリー・ペイパー。なかなか入手できない人のために、PDFで落とせます。よかった! これで読み逃しがない。いつゴージャスな丸の内OLと会っても、これで会話に困らずに済む。


IRREGULAR RHYTHM ASYLUM Blog: 「TOKYOなんとか」5月号

毎月IRAのBlogから入手可能。グラトス! ムチャス・グラシアス!


グラシアス

■最近、いただいたもの。グラシアス!


▶まず、敬愛するレゲエ・シンガー:リクルマイ(Likkle Mai)さんが、新しいシングルを送ってくれた。


(左)は、しばらく前に送ってくれていたのにお礼してなかった「My Woman / Home Sweet Home」・・・彼女の傑作アルバム『MW』からのシングル・カット。


そして(右)が今回のブラン・ニュー・シングル「Come Together for I & I / Dub Version」で、これは純正70年代ルーツ・ロック・レゲエ・スタイルのハード・ステッパー・チューン。ぐだぐだしてると胸ぐらつかまれそうなバス・ドラムの4つ打ちキックに、もりもりと暴れるベイス・ラインが高揚させる。そして彼女は、持ち味のみずみずしい上にキラキラした声で、嬉々として清流を泳ぐ魚のように歌っている。インディペンデントなフリーダム・ファイターに団結を促す、真摯でIあるメッセイジ。

B面のダブ・ミックスも、パワフル&スリリングで最高です。この曲では、多分サンバで多用されるアゴゴ・ベル(小型のカウ・ベルみたいな、でも円錐形のベルが2つ繋がってる打楽器)なんじゃないかと思うけど、そのレゲエではレアな音色が効果的に使われてて、バビロンの連中にはキャッチできないピュアな秘密の信号のように響くのだ。もうすぐ次のアルバムも発表されるそうなので(これはそのリード・チューンなんでしょう)、心身清めて、楽しみに待ってます。オブリガード。

彼女のオフィシャル・サイトで試聴可。


やっぱり、先進アーティストは7インチ盤作るよね。ワックスは音がいいぜ! MP3? 何それ。



▶もう1つのカムサハムニダは、鮮やかに脱サラをキメて、この春、千葉県は九十九里海岸を臨む長生村にインディペンデント“インドカリーと絵本のお店”こだまやをオープンした児玉 “K8” 雄大くんへ。彼が、同じ長生村にある、自家焙煎のおいしいインディペンデント珈琲屋KUSA.さんの珈琲豆を送ってくれた。


農作物としての豆の香りが残るように、毎朝少量ずつ焼き上げているというその豆は、箱をぐるぐる巻きに保護してあったエア・キャップを留めていたテープをひとすじはがした瞬間に、見えない煙のような珈琲の精が立ちのぼった、それはそれは香り高い、職人による逸品だ。淹れているとき既に満ち足りた気分になり、そして、嚥下後ものどの奥から鼻の方にうまい。テリー・サヴァラスも、一口飲んだらこっちに乗り換えるね。グラアッツェ。


その児玉くんは、朝日新聞でも紹介された『K8』という社会派で“ロック”なインディペンデント雑誌の発行人でもある。すなわち、どうやって生きるべきか、声に出しながら考えているカリー系活動家である。


その彼の供するカリーを、東京の仲間たち(オレの仲間は仕事で必要な人間以外、ほぼ誰も自家用車など持っていない)は、レンタカーを借りてまで、はるばる食べに行っている(レンタカーを借りるくらいの金は持ってるらしい)。オレもいつの日か、真似してみたい。


5.21.2009

魂の文章術


本でも映画でも音楽でも、邦題をつけるというのは難しいもので・・・最初にこの書名を見たら、オレはそそられなかったと思う(もう、一応、始めてるんだし)。が、たまたまアメリカでこの本が有名なことを知っていたので日本語版を迷わずに買い、そして、その日から一気に座右の書となった。うまい文章を書くテクニック伝授します風の本に思ってしまいそうだが(そう思わせないと日本では売りにくいからだ)、全然。むしろ、遥かに、書くこととは何ぞや”という精神論です。そもそも原題が『Writing Down the Bones : Freeing the Writer Within』というグッとくるもので、原書(米版)の目次には・・・
Fighting Tofu(豆腐と闘う、だぜ!) / Tap the Water Table / We Are Not the Poem / Man Eats Car / Writing Is Not a McDonald's Hamburger / Don't Marry the Fly / Don't Use Writing to Get Love / Nervously Sipping Wine / One Plus One Equals a Mercedes-Benz / Be an Animal / Blue Lipstick and a Cigarette Hanging Out Your Mouth / The Samurai / I Don't Want to Die...

などなどの文言が並び、これで読むなという方が無理だ。で、こういう目次の文句からも匂ってくるけど、この著者ナタリー・ゴールドバーグは長らくアメリカで禅を実践していて、彼女の尊敬する禅師(在米日本人、日系米人だっけかな?)の言葉が本の随所に出てくる。それがこの本の含蓄の重要な土台を為していて・・・つまり彼女は禅師の言葉の中に(生きることのみならず)書くという行為の神髄を、書くことに向き合う際に取るべき態度を発見してきたのであり、そうした教えを心に留めながら、そして、メディテイションで自分の心の制御に努めながら、文章修業をしてきた。そこで得たことを迷える文章書きに伝授する本というわけだ。
そんな調子だから、ゴールドバーグさんのこの指南本には、“助詞に副詞に重文複文”的な具体的な文章作成術なんてまるで出てこない。考え方、向き合い方、そして自己コントロールとしての文章術。こんな本はそうないだろうし、しかし買い手が邦題からこの内容を想像できるかというと疑問で、つまり、明らかに書店で実際に手に取らないと分からない種の本なのだが、最近はこの本を並べている本屋さんもほとんどないので、読んだオレだけ文章がうまくなるんなら好都合だが、・・・つーか、一見平易に書かれているこの本は、その実、内容をその深部から、それも身体で理解するにはおそらく一生の修業を要するんだろうと思う。
でも、自分に必要なポイントを幾つか拾って実践するだけで、文章の腹筋は確実に鍛えられるはずだ。それよりなにより、目次の期待通り、純粋に読んでいて面白いテクストだから手放せない。禅思想に学んでいるとはいえ、この著者には盲目的熱病風のイタい東洋崇拝はないから安心だし、訳文も脂気の抜けた修行僧然としていてサラサラと流れ、しかし内なる小骨は硬く、噛み応えがある。

それにこの日本語版は、装丁も綺麗なんだけど、手で触っていくうちに、表紙の文字の赤い部分が徐々ににじんでいくから古本屋に売りにくいという、実に考えられた作りだ。ひとりでに表紙が、深く何度も読み込んでるぞ、という感じになっていく。

書くことはマクドナルドのハンバーガーじゃない。オレもそれは分かるし、そんな文章書きになるのは嫌だ。で、音楽を作ることも全く同じだと思うのだが・・・実のところ、一定時間が過ぎるとゴミ箱に捨てられていく音楽も大量にある、相変わらず。

5.20.2009

ボリス・ヴィアンのジャズ入門(その1)

『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』という邦題になりましたが、原題は『Derrière la zizique』といいます。“おんがくの裏側に”といった意味で、要はヴィアンがレコードの裏ジャケットに書いた文章(ライナー・ノーツ)を指しているわけなんです(“ジジック”というのは、“ミュージック”の、言わば大人も使う幼児語)。もはや“裏ジャケ”なんて言葉は死語だし、ダウンロードでしか音楽を買わない人には“ライナー・ノーツ”なんていう言葉も???だろうし、そんな、CDどころかDL世代の若者にも“引かれたくない”(つまり、面白く読んでもらえる本な)ので、そういう邦題にしました。


とはいうものの、中身はジャズばっかりじゃないのです。ヴィアンはシャンソンやフランスのポップ・ミュージックのレコードにも、それからジャック・タティ『ぼくの伯父さん』、ルイ・マル『死刑台のエレベーター』(の音は、マイルズ・デイヴィスのジャズだけど)ほか、複数の映画のサントラ盤にも原稿を書いていました。それらも含め、彼がレコードの裏側に書いた総ての原稿をまとめた本です。“Rock'n'Roll”や“R&B”についてのコラムもあります。それに、彼にしか書けないようなシニカルな爆笑原稿も何本も入っています。


その日本語版『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』は、表紙がまだできていません。下の写真は(左)がファヤール社から出ている『全集』の第12巻で、翻訳の底本。(右)はぼくが最初に買って読んだペイパーバック版。で、これは面白いぜ!と思って訳することに決めたのです。日本では早川書房からボリス・ヴィアン全集が出ていますが、この“ライナー・ノーツ集”は本邦初訳出です。


アイドル

■40年も生きると、アイドルの5~6人くらい、できるものです。

あと、ボリス・ヴィアンとローリング・ストーンズね。

ミーハーだけど、なにしろイケメン好きなもので。