1.23.2013

ここ最近の楽しい仕事

■結局今度の本『コンバ - オルタナティヴ・ライフスタイル・マニュアル』にここ数ヶ月間、ほぼかかりっきりだったわけですが、でも他の仕事もいくつかはやってたわけでして、またしてもそういう自分の仕事の宣伝をしないまま年を越してしまいました。
世に出たタイミング的に最新のものから遡って、ここしばらくの仕事の一部をメモ的に。
3日前に発売になった『ミュージック・マガジン』02月号のコラム〈ポイント・オヴ・ヴュー〉に1本、書いてます。〈脱原発の立場から、この前の総選挙の結果をどう受け止め、今後どのように行動するべきか?〉というテーマを編集部から投げられたのですが・・・

(前略)ぼくは話の前提となる選挙制度自体を信用していないから当然その結果もハナから重視しないことと、編集部の意向に従うまでもなく、お生憎さまだが〝推進派〟の読者には全く配慮しないことだけ先に述べて話を進めるが、つまりそんなわけで、選挙結果で反原発派が落胆する必要などないのだ。(後略)

てな2000字弱の原稿を書いてます。


その一号前、表紙にきゃりーぱみゅぱみゅとボブ・ディランが一緒(なのが傑作)の2013年01月号では、恒例の昨年のベスト・アルバムを選定してます。ぼくはおなじみ大石始さんと合議で〈レゲエ海外〉〈レゲエ国内〉のベスト・アルバム各5選。それからレゲエ以外から選んだ2012年の鈴木孝弥個人ベスト10選。



昨年末にリリースされた話題作、ジンタらムータ with リクルマイ「平和に生きる権利」にコメントを寄せました。
このリンク先にそのコメント(肩書き付けるの忘れてオレだけ偉そう・笑)も載ってますが、そんなことより、この曲の詳細なインフォもあるし、プロモ映像も観られます。素晴らしい歌と演奏なのでコメントにもあんな風に書きました。でも本当に、聴くたびにギュッと胸が締めつけられる。そこに痛みも伴うんだけど、その痛みを誤魔化さず、逃げない、癒し(←という言葉は、オレは滅多に使わない)の鼓舞に満ちている。昨年末以降、我々にはこの曲がある。みんな、一緒に聴こう。カバンの中に入れて、この曲を持ち歩こう。


『コンバ - オルタナティヴ・ライフスタイル・マニュアル』の発売が結局年をまたいだことと、オレが12月のローリング・ストーンズのデビュー50周年記念公演のチケットを(ニュー・ジャージー公演もブルックリン公演も)買えなかったことは、全く無関係ではない。どこか1枚でも買えたらニュー・ヨークに飛ぶつもりだったので、本のデータは12月上旬までに印刷屋に入れられる状態に仕上げようと思っていたのだが、11月のチケット発売日にUS《チケットマスター》にアタックしても、ネット回線大混雑。結局アクセスできて買える権利を得られたのは800ドル(!)の特等席だけだったのであきらめ、オレを追い立てるものがなくなったことで本のカヴァーまわりや紙選び等々、じっくり時間をかけた結果、印刷屋さんに入れるのが年末になったのだった。
そんなN.Y.のチケットも狙ってみたりする程度のローリング・ストーンズ好きではあるけれど、仕事でストーンズの原稿を書く機会を与えてもらえるほどの立場では全然ないので、11月に発売になった『レコード・コレクターズ』1月増刊号『ローリング・ストーンズ名曲ベスト100』では、いち読者としてアンケートに応募してみた。あなたのベスト10曲リスト&1位の曲についてのコメントを書いて送って、というヤツ。そしたら〈東京都・鈴木孝弥〉さんとして自分の1位の曲のコメントを採用してもらえた。やった!(で、オレのストーンズのベスト・ソングは、ずっと昔から「Monkey Man」)。――つーか、こんなの“仕事”じゃないわけだけど、東京都港区の区議に鈴木孝弥さんがいるんで(そっちは、すずき・たかや さんだけどね)、自民党員がこんなグロでドラッギーなコメントを書いたのか? って噂になると彼に間違いなく迷惑かかるんで、ここに書いときました。






こっちは『ミュージック・マガジン』&『レコード・コレクターズ』プリゼントの増刊『定盤1000』。『ミュージック・マガジン』600号記念企画として、同誌の11月増刊号として発売になったものですが、中のレゲエ枠を担当しました。ぼくの考える究極の定盤33枚を選び(選ぶというのは、すなわち落とす作業なので、そこはツラかった)レヴューしてます。しかし、これがオール・ジャンルから選び抜いた定盤の1000枚だ!という堂々たるコンセプトの迫力は、ペイジをめくってるだけでガツンとくる。聴いたことのない作品が多ければ多い人ほど、この本は楽しい。


10月下旬にリリースになった小泉今日子デビュー30周年記念盤『Koizumi Chansonnier(コイズミ・シャンソニエ)』の中の1曲、菊地成孔プロデュース曲「大人の唄」で、歌詞のフランス語を作りました。菊地さんの書いた歌詞を部分的に仏訳したのですが、菊地さんの日本語の深み・言葉の裏側の影の部分がどうやっても(フランス人に相談しても)仏語に置き換えられない箇所は、菊地さんに了承を得て表現を創りました。そんな風にして書いたフランス語フレイズの一部が飾り文字としてジャケットの中央(タイトル下)に使われてます。ファン冥利に尽きるとはこのこと。肝心の楽曲の方も実にかわいらしい仕上がりで、その中に菊地さんらしい“スパイシー”なセンスが随所に利いています。形に残ったものの中で、ああフランス語を学んでよかったな、と、これまで一番実感した仕事は、マヌ・チャオに直接インタヴューしたことと、この小泉さんの録音に関われて、自分の仕事がジャケの真ん中に使われたことだろう……。



とか、うっとりしてる場合では、実はないのであって、とにかくみなさんに知っていただきたい『コンバ - オルタナティヴ・ライフスタイル・マニュアル』もフランスの本です。この本を紹介できることも強烈に意義深いことだと思っていますし、ホンヤクティヴィストとして今、やっとくべき仕事をちゃんとしたつもりです。おかげさまで、先週よりリアル書店で先行発売中。「目立つけど、何の本か分からない」というご意見をたまわった書店さんが数軒ある以外、おおむね、よい反応をいただいてます(って書くんだよね? こういうとき・笑)。
で、ネット書店でも販売開始になって落ち着いた頃に(来週とかに)この本のことを改めてきちんとお知らせします。ああそうだ、この本の関連で先日、東京下北沢は対抗文化専門古書カフェ気流舎のZineにも6000字ほどの原稿を書いたのだった。これも、オレ以外の寄稿者のテクストを読むのが楽しみで、できあがりを心待ちにしています。


1.15.2013

雪の日の日記

■昨日の大雪の中、かれこれ20年来の友人で、パリから帰郷中のジャーナリスト、佐藤久理子とランチした。

場所は《農民カフェ》学芸大学店(東京都目黒区)。下北沢店には行ったことがあってとても好きな店だが、二号店が学芸大学(駅)にも出来たというので行ってみた。といってもオーナーの和気優さんはそもそもくりちゃんのお知り合いで、その関係で下北沢の《農民カフェ》を知ったのだったが。


で、このランチ・プレイトがまたおいしいんだよ。普段、脂っこいものとか刺激物がガンガンに好きなオレも、ときおりヴィーガン・レストランに行く趣味もある。動物性の味(旨味)に頼らない野菜料理は、当然その素材の滋味を味わうのと同時に、その調理法の“工夫”がごちそうだ。プレイトになっていると、素材ごとの味の違いを引き出す技とアイディアがいろいろ体験できるのがとても楽しい。

前回下北沢店で食べたランチ・プレイトはヴィーガンだったけど、学芸大学店で昨日食べたものは、ほんのちょっとだけ肉を使っていた。食べたくない人はオーダー時にそう言えば、きっとそこだけ別の一品と変えてくれるんだと思う(下北沢店でも、夜の酒場営業時には肉を使った料理も出す)が、それでも95%ヴェジなプレイト。左は付いているスープで、赤カブのボルシチ風な感じのもの(写真のヘタさのせいじゃなく、つまり本当に赤い。ほんのり甘苦い、こっくりとしたうまさ!)。

くりちゃんとの話は密談なので書けない(笑)。和気さんを交えたディスカッションも有意義だった。

で、オレは彼女にできたてホヤホヤの『コンバ』(今日明日くらいから順次書店に流れるはず)をあげたが、彼女はアンヌ・ヴィアゼムスキーの新刊『ユナネ・ステュディユーズ』と、くりちゃんの友人の写真家リシャール・デュマ(Richard Dumas)が撮ったジャン=ピエール・レオーのポートレイトをおみやげにくれた!!!


ゴダール作品(『中国女』↓『ウィークエンド』〜ジガ・ヴェルトフ集団作品)で有名な俳優で自らも映画を作り、作家でもあるアンヌ・ヴィアゼムスキーの昨年フランスで話題になった新刊は、彼女が『男性・女性』を観てゴダールにファンレターを送るところから始まって、二人が激しい恋に落ち、1967年の『中国女』に起用され、結婚に至る時期について書かれたもの。小説とはいえ、ほぼノン・フィクションに決まっている(ざっとめくっただけでもブレッソン、ロッセリーニ、ラングから、ラ・ヌーヴェル・ヴァーグ関係者の面々が実名で登場するし、もちろん68年5月革命に向かう“政治の季節”ならではのくだりとして、5月革命の重要拠点となったパリ第10大学(ナンテール)の構内でダニエル・コーン=ベンディットがヴィアゼムスキーをナンパする場面が出てきたりする!)。ダニエル・コーン=ベンディットの名前は『コンバ』にも出てくるよ(くりちゃん、ありがとう!)

なんかiPhoneを買ったら、いきなりブロガーっぽいブログを書いてみたくなった(笑)ので、実行してみました。結構楽しいな。



1.08.2013

『コンバ』、著者はこの人


イラストはこの人、原田淳子。
http://www.geocities.jp/harada_kikaku/

(写真:タケウチミホ


装幀は『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?』に引き続いてこの人、Saori@wsra 。
https://twitter.com/wsra


1.05.2013

原発推進派に“ショック”を与える発言集

■新しい年を迎えたので、最初の話題はこの、希望に満ちたものにしようと思う。

昨年末、世界中の原発推進派に“ショック”(←ベルギーのTV報道での表現)を与えたのが、ベルギー原子力安全局長のウィリー・ドゥ・ルーヴァラー(Willy De Roovere)が退任を前にして語った発言だった。原発安全の責任者自らが、「私は別のエネルギー形態を選ぶ」と発言したのだ。

下に訳出した、その発言を機に書かれた『ル・モンド』の記事は、福島第一の事故以降、ベルギー、スイスやフランスの原発推進の“強硬派”だった人々ですら、それまでの意見を改め始めていることを報じたものだ。記事内の彼らの表現が、それぞれの国の原子力ムラ内部の圧力、バイアスで割り引かれていることを想像するなら、彼らの心境はもはや、“原発ダメ。ゼッタイ。”モードに入っているかもしれない。

科学は、当然ながら、ユニヴァーサルだ。先の総選挙の結果を、脱原発に向かう流れの否定として理解したい人も多少はいるのだろう。だとしたら、そんな人の中で、識者たちが勇気を振り絞って(←おそらく)行ったこれらの発言の重大性、その価値を否定できる人がいるだろうか? 


《懐疑の時代に入った原子力》

2012年12月28日付け『ル・モンド』。(太字はオレ)

1979年のスリー・マイル・アイランドや、1986年のチェルノブイリの事故のあとでさえ、ここまでの発言はなかった。原子力の守護者たち(中でも最も熱烈な部類の人たちまでも)が、彼ら自身が長きに渡って目を閉じたまま擁護してきたエネルギーの“素晴らしさ(エクセレンス)” を疑い始めるのに、2011年03月11日、福島の原子力発電所の大惨事まで待たなくてはならなかったということなのだ。

一番最近、それについての疑念を表明したのはベルギー原子力安全局長:ウィリー・ドゥ・ルーヴァラーだ。「私たちは、原子力のリスクを、この期に及んでなお許容できるのかどうか、疑ってかからなくてはなりません。心の底から正直に申し上げますが、私がそのリスクを注視するならば、私は別のエネルギー形態を選ぶでしょう……」。彼は、今年一杯での退任に際し、クリスマスの前日にこのように告白した。

これまでの主張から方向転換したのは彼だけではない。ベルギーやドイツと同様に核エネルギーからの脱却の計画を立てたスイスでは、元スイス電気事業者協会の会長であり、名声ある原子力技術者でもあるジャック・ロニョン(Jacques Rognon)教授が、2011年に、もう原子力は信じない、との考えを明らかにした。その理由として、費用がかかり過ぎること、複雑過ぎること、プラント周辺住民との間で“受け入れ問題”が多過ぎることを挙げながら、深層地熱のような他のエネルギー源によって今や既に現実のものとなってきている発電技術の革新を強調した。

今も大きな国民的合意に基づくものとして原子力エネルギーが存在しているフランスでも、原子力の安全性を謳う“教条(ドグマ)”は、もう通用しない。原発技術を開発した張本人である、エコール・ポリテクニック(*)のOBたちもその認識を同じくしている。
「慎重を期したところで、原子力事故は必ず起き得る」――2012年01月、フランス原子力安全局長のアンドレ=クロード・ラコスト(André-Claude Lacoste)は、そう認めていた。
(*訳註:フランスの理工系エリート養成のための高等教育機関。ナポレオンがその学生を自分の支配下に置くために軍の所属とした学校で、現在も国防省が所管する)

彼の同輩のひとり、放射線防護・原子力安全研究所所長のジャック・ルピュサール(Jacques Repussard)は、「福島は、“想像を絶することを想像すること”を強いるものだった」と表現した。

それらは、テクノロジー先進国で起きたカタストロフィーに衝撃を受けた“悔い改め”の言葉なのだろうか? それだけではない。

原子力発電のコストの問題、それもまた、確実性のかなりの部分をぐらつかせている。原発の擁護者たちが、自分たちのエネルギーは二酸化炭素を排出しないクリーンなエネルギーだということを全面に押し出すのはもっともなことだ――地球温暖化がどんどん重大な脅威となっていく現在、それはひとつのキー・ポイントなのだから。しかしながら、それと並んでもう1枚の彼らの“有力なカード”である費用の安さに関する主張は、それこそどんどん切り札としての威力を失ってきている。

安全確保のために、あるいはキロワット時あたりの長期的な価格保証の難しさを補うために、新たに必要とされていく費用について多くの専門家が試算したところ、このまま原発を使い続けるためには、原子力エネルギーから脱却するのと同じだけの高額な費用がかかるという。

(以下、フランス国内の具体的数字や事情に関する部分、中略)

原子力は長い間、“大物”科学者たちによって支えられてきた。ところが、科学理論の中で、反駁を許さない知見などないのだ。他のエネルギーに適用しているのと同じ科学的厳格さと正統的経済学を適用して、原子力が再検討されんことを願う。★★★