1997年のアジア通貨危機、とりわけおとなり韓国でウォンの暴落後に IMF の介入を受けて構造調整政策(対外債務返済危機に陥った国に対して世界銀行と IMF が融資の条件とする一連の自由化市場経済化政策)を強いられたことによって、韓国のたとえば農民がどれだけひどい目に遭ってきたかを忘れたのだろうか?(それを憶えている人はTPPに賛成などしないわけだが……)
映画は海とボートのカットから始まるが、ありがちなジャマイカのステレオタイプな太陽と海の映像かと思いきや、次のカットでガーナのケイプ・コースト城が映し出され、そこが西アフリカだということが分かる。ケイプ・コースト城は、奴隷貿易の拠点として使われたことで名高い要塞だ。このマーリーの伝記映画は、地下牢の劣悪な環境に置かれ、その身を売り飛ばされる瞬間を待っていたアフリカ人たちの心情を想起させる場所の映像を冒頭に置いている。シークエンスは、そこの扉を通った“奴隷”たちが二度と故郷に戻ることができないことから名づけられた〈Door of No Return〉のアップへと続き、その扉を開けると、マーリーがステイジで「ジャー・ラスタファーライ!」と叫ぶカットにつながって、この伝記映画は幕を上げる。この最初のシークエンスは、本作の中で最も印象深いもののひとつだった。
しかしこの映画では、その展開の間にきちんと語られていないことがあり過ぎることも事実だ。そもそも白人と黒人の間の不和(特に黒人が白人に対して抱く敵意、わだかまり)はどこに起因するのか?(昔から仲が良いのであれば、黒人と白人の混血がつらい思いをすることはないのだから)。本作はそこを冒頭の〈Door of No Return〉を大写しにすることだけで済ませてしまっているが、ならば奴隷貿易は何のためだったのか? それは誰がどんな社会/時代背景の下に主導したものであったのか? そこにキリスト教はどう関わったのか? といったことを説明し、そうした状況のカウンターとしてラスタファリアニズムが存在することを、つまり〈Door of No Return〉とラスタファリアニズムとの関係を明確に示さなくてはならなかったのではないか? 北南米、西欧やアフリカの観客に対しては西欧帝国主義と奴隷貿易についての説明など必要ないのだろう。しかし彼(女)たちがみなラスタファリアニズムの肝を理解しているはずはない。ましてやそれらの事柄のいずれに対してもさほど親和性を持たない日本の観客は、この映画が省略している事柄を、映画を観ながら頭の中でどれだけ補完し得るのだろうか?
白人と黒人の間の歴史を明示せず(つまり両人種の間に横たわる問題点をつまびらかにせず)、この2012年現在に至っても、欧米先進国(G8/日本含む)は経済的途上国に対して新自由主義という名の新種の帝国主義政策を取り続けており、そうした権力が世界銀行や IMF を手先に操って途上国から搾取し続けている事実にも全く触れていない。アフリカなどは現在、〈Door of No Return〉を通るまでもなく、その自分たちの母なる大陸にいながらにして西側の“白人”から搾取され続けていることを、そしてジャマイカも搾取されている国のひとつだという点をまったく描いていない。要は問題の根源を示さないままでの、〈マーリーはすべての人類が共に仲良く生きることだけを夢見ていた〉という話の締めでは、それはあまりに子供騙しなのではないか、という印象は正直言って拭えないのだ。
そうしたナイーヴな政治問題を極力扱わず、よって世の中のどんな政治的な動きに対してマーリーはどう反応し、そこでどんなメッセージを書き、述べたのか? についてもほとんど触れず、西欧白人至上主義の歴史も、ジャマイカに入植した国々も、そこへアフリカ人を拉致してきた者たちも名指しで糾弾することなく、ジャマイカの二大政党間の内紛は描くもののその背後にアメリカが存在していることもおくびにも出さず、自分の権利を手にするために「Get Up, Stand Up」しなくてはならないような、弱者を虐げ続ける社会構造に関しても言及しない代わり、この映画は、マーリーの生き方も、その歌のモティヴェイションも、そのほとんどすべてを〈ジャー〉と〈ラスタファリアニズム〉に回収してしまう。混血マーリーの存在は未来のためのポジティヴなシンボルにはなり得るが、過去の、そして現在の事実認識とその反省なくして未来の世界平和などあり得ないだろう。さらには、人種間の問題も、みんなが特定の「神の側に」立てば解決の方向へ向かい、みんなが幸せになれるかのような印象を抱かせかねない編集は、マーリーの音楽の社会性に照らし合わせると、制作側の偏狭な思惑を感じないわけにはいかない。それが悪い、というよりも、そうしたことを敢えて描かないことに決めた作品なのだと、ぼくは認識した。つまりこの映画は、誰も敵を作らないことに留意し、世界中のあらゆる政治思想を持った人々に、そのできるだけ多くに観てもらえるように作ったのだろう、と。この“オフィシャルな伝記映画の中のマーリー”は、自らは問題を何も指摘せず、ただ理想を述べる平和のアイコンとして編集されたのだ。