3.13.2012

「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。

■この表題と以下の文章は、暇と退屈の倫理学』の國分功一郎さんが、スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号に寄稿した「パリのデモから考える」からの抜粋である。

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デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。
(中略)
デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。

(全文はこちら)
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-11190461401.html

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ぼくは去年の311以前からデモに行っているし、原発が全部止まってもデモには行き続ける。デモが好きだからだ。その理由を國分さんは明快に言葉にしてくれた。




とはいえ、我々にはこの日曜のこんなデモのやり方も必要だったし、そのデモがまた素晴らしかった。こういうデモを作っていると、ある“特定の”連中の脇の汗染みがまた少し大きくなる様子が目に浮かんでくる。いいぞ、この調子だ、と思う。

いいデモは、そのメタ・メッセージを遠景にプンプンさせながら、ピンポイントのメッセージの剣先で、巨大でどす黒い物体にグサリと切り込んでいる実感が持てるものだ。

だからデモは実にいい。“最悪の事態”にあってなお、「連中の言いなりにはならない」ことをみんなで確認しあい、その強烈なポジティヴィティーを、それぞれの街の目抜き通りに現出させることができる。