8.09.2009

マニュ・チャオ通信(#10 bis)

■大方の人にとっては野暮な追記だろうが・・・前エントリーに載せた今年の《フェット・ドゥ・リュマニテ》のポスターに描かれているのは、フランス19世紀を代表する画家の1人であるドゥラクロア作、かの有名な『民衆を導く“自由”(の女神)』のパロディーである。

オリジナルはこれ。去年のコールド・プレイ『美しき生命』のジャケットにも使われてましたね。


この絵の中心で民衆を導いている女性マリアンヌは、《フランス共和国を象徴する女性像、もしくはフランス共和国の擬人化されたイメージである。自由の女神として知られる(Wikipediaより)》。

ユーロ導入前の仏通貨フランス・フランの100フラン紙幣にもこの絵が使われていたし、つまりフランス共和国を代表/象徴する絵画の一作であるわけだが、《フェット・ドゥ・リュマニテ》のポスターにおいて、その白人女性マリアンヌは、“おっぱいなんか見せない”“ドレッドロックスの黒人女性” になっていて、手に持った銃は “ギター” に、フランス国旗は “赤旗” に変わっているわけだ。


いくら“自由の国”フランスといえども、これは少々デリケイトなアイディアではある(血の気の多い極右も、同じ自由を享受している)。しかし、そのデリケイトな部分にセンスよく切り込む行為が、あるべき“政治”の姿ではないかと思う。敬愛するランキン・タクシーは、《日の丸をハート型に/まん丸やめてハート型に/日の丸をハート型に/赤丸やめてピンク色に》と歌ったが、そういうセンスのことだ。で、思想と言論の自由を認める民主主義国家では、このセンスをまさか万人に押しつけてはいけないし、このセンスにまさか目くじらを立ててもいけない。

(今年もその日が近づいたが、倦むことなく毎年俎上に載る“デリケイト”な8月15日の靖国問題も、オレの目には、問題はその1点のように思えるのだが・・・)。


個人的には、そもそも国旗というものの存在自体が好きではないので、日の丸を所有してもいないし、サッカー日本代表チームの試合を観るときにほっぺたに描いたりもしない(もちろんそれをペイントする人を非難などするつもりも毛頭ない)。ただ単に、何故か偶然日の丸と同デザインで、その白い部分だけ黒くなっているものを、独自のシンボル・フラッグとして心の中に1つ掲げているからそれで用は足りている。