2.05.2010

『人は同性愛者に生まれる』

















■日本というところは、同性愛者にとって生きにくい国だろう。多分間違いなく、"先進国"の中では最もこの話題を避けている国だ。同性愛者が自分たちの人権を主張する運動を大手を振って行なうことができないし、やってもそれを大手メディアが真正面から報道ですくい上げないから、いつまでたっても“地下運動”のままだ。
世界に冠たる大都会の東京ですら、同性愛者が街中で手をつないだり、抱きあってキスをする光景を全然目にすることはない。昼の日中に同性愛者が集えることが広く知られているような場所、カフェ、地区などが、まず、ない。あるとしても、これまた“地下”の存在のままで、結局同性愛者たちも、太陽の光が届かないかわり雑音も少ない安らげる場所に篭ってしまうことを選んできた――選ばざるを得なかった――のかもしれない。そして、彼らの大切なアイデンティティーが、“先進民主国家”の中で不可視なものとして扱われている。


《教えて!goo》で、自分の中3の息子が同性愛者であることに気づき困惑した父親が、息子の同性愛指向のことを〈興味〉とか〈傾向〉〈趣味〉といった言葉を用いながら世間に相談しているのだが(以下、相談文の一部抜粋)・・・

《家族は小生40歳前半、妻同後半、当事者の息子に中一の次男、そして小生の母。
裕福でもなく、切羽詰った状況でもなく、ごくごく普通のサラリーマン家族と意識しています。今までそのような傾向のメディアには接することもなく、むしろクラスのガールフレンドなどの話題について冗談を言い合ったりしていました。

とりあえずパソコンや携帯にはフィルタリングをかけようと考えていますが、本人へのアプローチや妻への相談、今後そのような嗜好から脱却させるためにはどのような対応が必要なのか、専門家や専門医への相談も含めて検討をしています。
または、親が口出しするべきか、本人の自主性に任せるべきか、悩んでおります。

このような場合、そのような態度で臨むべきか、また上記のような専門会への具体的対応が必要か否か、必要であればどのような方法があるのか、ご指南頂ければ幸いに存じます。》

こんなのを読むと、この、“当事者の双方”を不幸にする事態は、〈好き〉〈寛容〉〈嫌い〉〈困る〉といったレヴェルの心証や態度を大きく凌駕する、客観的で科学的な説得力でしか救えないのではないかと思う。(そんなことを、分かった風な口調で書いているオレも、ゲイ/レズビアン/バイ/トランスそれぞれの知り合いが(中には親友も)できて話を聞いているうちに、彼女・彼たちが責められるべき理由など1mgもないのだと確信したので現在こんな考えに到ったのであり、20代の終わり頃までは、同性愛は不自然なものだと感じていたのだ――じゃあ“自然”とは一体何なんだ? という問いを一切自分自身に向かって投げることなく、である)。

昨日(2月4日)、ベルギーの出版社《エディシオン・マルダガ》から、その〈客観的で科学的な説得力〉を持ったと思われる本が発売になった。書名は『同性愛の生物学(人は同性愛者に生まれる。そうなることを決めるのではない)Biologie de l’homosexualité (On naît homosexuel, on ne choisit pas de l'être)で、著者はベルギーはリエージュ大学のジャック・バルタザール教授(生物学)。

バルタザールさんは35年間に渡って、性的な行動をつかさどるホルモンと神経のメカニズムを、ヒトにおいても他の動物においても合わせて研究してきたが、この本のサブ・タイトルがその結論である。この言い回しは、シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワール『第二の性』の名文句〈人は女に生まれるのではない、女になるのだ〉をパロっているのだろうが、『第二の性』が20世紀後半の女性解放運動のバイブルとなったように、この本も21世紀の同性愛者解放運動のバイブルになるのでは?・・・そんな雰囲気が、この副題のボーヴォワールをもじった言い回しから濃厚に漂ってくる

フランスの日刊紙『ル・モンド』のジャーナリスト:エリック・アザンの昨日(2月4日)付けのブログ(本エントリー冒頭の写真)で、この本の主旨=研究の結論と、バルタザール教授の発言が明快にまとめられているが、それを芯だけかいつまんで訳するとこうなる:

《ホモセクシュアリティーは病癖などではなく、胎児期における遺伝子とホルモン因子との相互作用の結果なのであり、要するに生まれる前に決定されるものゆえ、同性愛者本人にもその親にも全くその相互作用の原因はなく、よって同性愛者を追放しようとする考え方には客観的な正当性は一切ない》。(最後の“追放”という訳語が強過ぎると感じる人がいるかもしれないが、同教授は古代ギリシャ時代、危険人物の国外追放を意味した語"ostracisme"の動詞形“ostraciser”という語を用いて話している)

(このブログを読んでくれている同性愛者の人たちにとって、オレのこんな発言は余計なお世話なのかもしれないが・・・)同性愛者の自己肯定を、ならびに同性愛に対する客観的肯定を断固促すための、もうこれ以上の理屈は不要なのではないか? つまり、これは〈決定打〉ではないのか? もちろん他の学者からこの本の中身に対してどういう意見が出てくるのかを聞くにはしばらくときを待たなくてはならないだろうが、とはいえ、いち学者の35年に渡る研究の結論がさほど軽いものだとは考えにくい。少なくとも現時点ではこういう本がベルギーで出版されたことが日本でも知られるべきだと思ったし、そして日本の同性愛者や人権擁護団体に携わる人たちは本書を即刻入手して、よほどひどい本でない限り、邦訳出版に動いたらいいんじゃないかと思う。オレはこの本を日本語で1日も早く、読んでみたいという思いに駆られてこれを書いた。

世界規模で考えても、この本は、今もって同性愛が〈偏異・変質〉であるという公式見解を変えていないローマ・カトリック教会(ヴァチカン)の態度を変えさせる決定打になって欲しいものだ。