■オリンピックと同じくらいカラオケにもまるで興味がないオレが、初めてカラオケ情報に目を奪われた。
お隣りのフィリピンでは、この10年で、フランク・シナトラの世界的大ヒット曲「My Way」をカラオケで歌ったことが原因で殺人事件が起き、ハッキリ報道されただけでも少なくとも6人以上の犠牲者が出ているという。フィリピンのメディアはそれを“My Way Killings”と命名していて、カラオケ・バーでは、曲のリストからこの曲を外す、という事態になってるらしい。
イギリスの音楽ニュース・サイト《NME.com》
でも報じられ、そのリンクで飛んだ『ニュー・ヨーク・タイムズ』の「心の琴線ならぬ致死ラインに触れるシナトラの歌」といったタイトルの記事で詳細を読んだのだが、
そこで63歳のフィリピン人グレゴリオさんがこんな風に発言している。「オレ、“マイ・ウェイ”が好きだったんだけどさ、この一連のトラブルがあって歌うのはやめたよ。あれ歌ったら、あんた、殺されるかも知れんぞ」。
記事によると、なんで「マイ・ウェイ」を歌うと殺人が起きるのかの因果関係はハッキリとはしていない。ただ、カラオケが国民共通の趣味として普及している同国では、つまりみんなが“シンガー”であり、そんな中、この曲はあまりに有名で人気があって、みんなが“歌い手”としてこの曲に関してそれぞれに一家言持っている。だから、自分の解釈と違う「マイ・ウェイ」、あるいは、あまりに下手くそで聴くに耐えない「マイ・ウェイ」を歌われると、笑うとか、ヤジるとか、激怒するとか、それで逆ギレするとか、とにかくこの曲に端を発してあらゆる理由でトラブルが起きやすいのだそうだ。
また、この曲の歌詞(つまりポール・アンカがシナトラのために書いた英語詞)の“尊大さ”が、歌い手の気持ちを妙にでっかくしてしまい、周囲の迷惑も顧みず、陶酔しきって絶叫し、その態度が喧嘩を誘発するという意見もあるという。(オレはその意見に一票。うっかり、どっかでこの曲を耳にするたびに、こういうことをデカい声で言う人間にだけはなりたくない、と思う)。
布施明の日本語ヴァージョンは、シナトラがこれでもか、とばかりに畳みかける〈I did it my way〉のフレイズが“日本人向き”に翻訳されている。つまり、シナトラのマッチョで脂ぎった自己顕示欲を消したのはいいけど、そもそもどんな年頃の人がどんなシチュエイションで歌ってるメッセイジなのかすらよく分かんない曖昧模糊とした歌詞になってるのだ。布施明の歌唱力に聴き惚れて、そんな点には思いが到らなかったりするのだが。
話戻って、同記事はフィリピン社会の特徴を指摘しながらこの問題を考察しつつ、しかし“カラオケ禍”はフィリピンに限ったことではないとも報じている。マレーシアでも近年、人の迷惑を考えずにマイクを手放さなかった男が刺されたり、タイでは逆に、ジョン・デンヴァーの「(Take Me Home,) Country Roads」を歌った隣人たちに激高した男が、その隣人8人を殺した事件もあったらしい。アメリカでだって、シアトルのバーでコールド・プレイの「Yellow」を歌った男の歌に腹を立てた女性がその男を殴ったとか(!)。
ところで、話しついでにこの「My Way」の原曲(フランス産)は好きだ。その67年リリースのクロード・フランソワによるオリジナルのタイトルは「Comme d'habitude(コム・ダビテュード=いつものように)」というもので、倦怠期を迎えたカップルが、表面上はいつも通りの生活を続けながら、その関係が少しずつ冷えていく感じを、男の目線による日常の淡々としたスケッチの中で描いている写実的で現実的な曲だ。いつも通りに一人で朝起きて、背を向けて眠ってるきみの髪を撫で、いつも通りに一人でコーヒーを飲み、彼女を起こさないように静かに出かけ、いつも通りの曇天の下、既に遅刻してるオフィスに急ぎ、いつも通り仕事から帰り、いつも通り夜遊びで帰りの遅い彼女を一人待ち、いつも通り微笑み、笑い、セックスするのだが、その実、オレたちは“ごっこ”をしてるだけだ・・・という内容の、鬱々とした胸の内を歌の中で爆発させた情けなく悲しい歌が、大西洋を渡るとどうしてあの、一見紳士的なようでどうにも傲慢かつ大袈裟な自己肯定ソングになっちゃったのか、それが何より不思議だ。原曲の内容のまま英語にしてたら、カラオケで歌っても絶対に殺しは起きなかったと思うが。