2.23.2010

カーリングの素晴らしいところ


■何が聖なる炎なのか知らないが、あれだけ名だたるシオニスト企業を含む巨大多国籍企業のスポンサリングに支えられないと運営できない、スポーツの純粋性を利用したモンスター経済ショウが、聖なる祭典のはずないじゃん。
それに、76年のモントリオール五輪のようなリスク(10億米ドルの赤字を出し、その赤字を30年間かけて国民の血税で埋めた)を負うことを嫌ったアンチ五輪のヴァンクーヴァー市民の声は暴力的に封殺され、世界のテレヴィ画面は、五輪開催を誇らしげに歓ぶヴァンクーヴァー市民の笑顔しか映し出さない。そんなマス・メディアが五輪を華美にドラマティックに演出し、そこに大会開催を問題視する論調は一切ない。世界市民の目であり耳であるマス・メディアは、さすが、常に健全だ。

ってことで、巨大化したこんなグロテスクなイヴェントにはマジで興味ないのだが・・・カーリング競技それ自体の面白さは、それとはまた別の問題。チーム青森のおかげで、遅ればせながら、カーリングの強烈な面白さと素晴らしさに初めて気がついた。

オレの性格とのマッチングも多分にあるのだろうが、3時間のゲームにほとんど退屈する瞬間がない。選手たちが話し合う戦術を観戦者に聴かせる工夫も珍しくて興味深いし、(胸に日の丸なんか付けてるせいで内心は相当なプレッシャーと闘っているのだろうが、そんな様子をTV観戦者に悟られないように)あの微かな北海道アクセントで普通にしゃべってるチーム青森の選手たちは実にクールだ。

そもそもこの競技の何より素晴らしいところは、基本的に審判など不要であるべきものだと考えられているところだ。世界カーリング連盟の「カーリング精神」(スコットランド発祥の競技らしいシンプルながら厳格な美意識に貫かれた、“人間の心得”として読めるテクスト)に記されているとおり、自発的で自律的なフェア・プレイとセルフ・ジャッジを美徳とする。で、そんな文章を読むとすぐに想像してしまう・・・社会がカーリング競技で、人間が全員カーリング・プレイヤー(カーラー)だったらどうだろう、と。正義を暴力的に振りかざすオマワリやら裁判官やら、目障りな連中が不要な世の中・・・。

オリンピックのメディア報道はほとんどかしましいばかりだが、例外的にサンスポの《チーム青森、英国を撃破!》の見出しは、クスッと笑えて文章的に気持ちがいい。ユニフォームに国名として“GBR”をつけた、あのグレイト・ブリテンを青森の“カー娘(バカな愛称なりに、愛嬌はある)”がギヴ・アップさせた先日の強烈な名勝負は、やはり青森とグレイト・ブリテンの対比として記憶したい。〈クリスタル・ジャパン〉なんていう、“カー娘”より100倍安くて役所臭がプンプンする呼称をアナウンサーが連呼するのを聞くと、クリスタルどころかオレはどんより興醒めしてしまう。

カーリングを愛する人たちが、本州最北の県に集まって地道に育み、伝道してきた競技文化を、活躍が見込めるからといって、すぐ“なにやらジャパン”と称してナショナリズム発揚のダシに利用したがる連中の魂胆が薄っぺらで、貧しくて、嫌気が差す。オレは〈ジャパン〉とか〈ニッポン〉とかいう国を応援している覚えはなくて、〈チーム青森〉が好きなんですが、そういうの、ダメですか?

今さっき、〈チーム青森〉はスイス・チームに降参した。見苦しい“あがき”をさらすようなことはせずに、相手のプレイを賞賛し、自分から相手ににっこり手を差し出した。・・・ほんと、そういう気持ちのいい世界を夢想しちゃうね。そんな世の中が“きれいごと”だとしても、〈聖なる祭典〉やら〈クリスタル・ジャパン〉のそれよりはずっとマシだと思います。