9.17.2011

産経の悪意

■11日の新宿のデモで驚いたのは、警察の異常な、それは異常な弾圧だった。大量の逮捕者を出すことが当初からの“目的”だったのだろう。このままデモが拡大していくと大変なことになるかもしれない、と危惧する勢力が、〈デモなんかに来ると逮捕される。よい子はこんな連中の集まりに来ちゃいけない〉というイメージを作り上げたいのだろう。そしてナイーヴな警察はそのパワーに飼われ、ひざまずき、その手先となって真面目に参加者に暴力を振るう。逮捕することが目的なのだから、理由なんかどうでもいい。とにかく逮捕者を出さなくてはいけない。交通違反の罰金収入のノルマを達成するためにはどんな卑劣な方法でも使うのと同じだ。もちろんデモをできるだけ小さく見せるために、参加者数を思いっきり少なく発表する。市民の権利や安全を考えることは、公僕である警察官の仕事ではない。

では奴らが誰のために仕事をしているのか、昨日の産経新聞の悪意に満ちた表現の羅列を見ると大体想像がつくだろう。


(産経新聞 2011.09.16 金/社会欄27面)

その悪意の露骨さを和らげるべく、原発問題とは関係のない〈ライブ〉や〈イベント〉のことも挟み込んで、最後に、これは“デモ潰し”の記事ではない、という顔つきに形よくまとめるのかと思いきや・・・この、トイレのほんの2メートル手前で漏らしてしまったような、弛緩した最後っ屁のような結びの一文はなんだろう。無記名原稿だと、記者はここまで下品になれるのか(産経はベタ記事以外でも無記名記事が非常に多い)。
赤線を引いた箇所のように、ここまで一方的にネガティヴな文句を書き連ねれば、「このななしの記者はニュートラルな視点で物事を見て記事を書いているに違いない」、と感心する読者はおそらく皆無だろう。それは本来新聞の沽券に関わる大失態なはずだが、編集局の上司もマフィアの広報紙だと割り切って、こんな記事の幼児性を目こぼししている、ってことなのだろうか。

この記事の、読んで力の抜けるような幼稚な悪意について1点だけ書いておくなら、最上段左の

〈主催者側がネットで「出入り自由」「踊るだけでももちろんOK」「めんどうな集会などいっさいなし」と告知した〉

という箇所は、記者はここからコピペしたのだ。


これはデモの一部を形成する〈ドラム・ブロック〉の紹介文に過ぎず・・・このマーチング・バンドの近くで、リズムに合わせて歩きたい方は楽器を持ってなくてもお気軽に隊列に混じって下さい。このバンドは参加者に一切何も強制しないし、内部にヒエラルキーも作らないし、アナーキーな自由主義を尊重する集団だから、終わったあとに何かのグループに入れだの、集会に来いだの(笑・そもそもそんなのを一番嫌ってるんだから)は一切言いませんから、興味のある人は安心して参加して下さいね・・・という説明なのである(ましてや、その「めんどうな集会などいっさいなし」という部分を最初につぶやいたのはオレなのだ)。
そうした言葉を恣意的にコピー&ペーストしてデモ全体に敷衍し、デモに対する何らかのイメージ操作に使おうとした。読者に嘘を読ませるのだから、記者としては明らかなダメ仕事であるが、マフィアの広報紙としてはこれでOKなのだろう。

同じ日の東京新聞も大枠の記事を作っている。こちらはデモから5日を経てなお、11日の弾圧を問題視する記事を、小倉貞俊記者が記名原稿で、作っている。


(東京新聞 2011.09.16 金/特報欄26面)

ぼくは、実際にデモに最初から最後まで参加して状況をある程度自分の目で見ていた人間として、こちらの東京新聞の記事の方が遥かに信用できるが、みなさんはどのようにお感じになるでしょうか。

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デモ後に、アルタ前で柄谷行人が行った演説。

2011 9 11 新宿アルタ前演説
柄谷行人「反原発デモが日本を変える」


▶▶▶この4月から反原発のデモに参加しています。このアルタ前でも6・11デモにも参加しました。
私がデモに行くようになってからいろんな質問を受けます。しかもたいがい否定的な質問です。

そのひとつは、「デモで何が変わるのか?デモで社会を変えられるのか?」というものです。私はこう応えます。もちろんデモで社会を変えることができる。確実に変えられます。なぜなら、デモをすることで、デモをする社会をつくれるからです。(歓声)

考えて欲しい。今年の3月以前に、日本には沖縄を除いてデモはほとんどなかった。それがいま、日本全国きょうもたぶん100ヵ所以上でデモが行なわれています。その意味で、日本の社会はすこしは変わった。これは明らかです。

例えば、福島原発の事故のようなことがドイツやイタリアで起こればどうなるか、あるいは韓国で起こればどうなるか、巨大なデモが国中に起こるでしょう。しかしそれに較べれば、日本のデモは異様なほどに小さい。しかしそれでもデモが起こったことは凄い、救いであると私は思います。(拍手)

デモは主権者である国民にとっての権利です。デモができないなら、国民は主権者ではない。例えば韓国では20年前までデモは出来なかった。軍事政権があったったからです。しかしその軍事政権を倒して国民主権を実現した。デモによって倒したのです。そのような人たちがデモを手放すはずがありません。

では日本ではなぜデモが少ないのか?なぜそれはヘンなことだと思われているのか?それは国民主権を自分の力で、闘争によって獲得したからではないからです。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかしそれは敗戦によるものであり、事実上占領軍によるものです。つまり自分で得たのではなく、与えられたものです。ではこれを自分自身のものにするためにはどうすればいいか?それはデモをすることです。(拍手)

私が受けるもうひとつの質問は、「デモ以外にも手段があるのではないか?」というものです。たしかにデモ以外にも手段があります。そもそも選挙があります。その他さまざまな手段があります。しかし、デモが根本的です。デモがある限りその他の方法も有効になりますが、デモがなければそれらは機能しません。いままでと同じことになります。

さらに私が受ける質問は、「このままデモは下火になっていくのではないか?」というものです。戦後日本には幾度も全国的な規模のデモがありました。しかしそれは長続きしなかった。今回のデモもそうなるのではないか、というわけです。たしかにその恐れはあります。マスメディアではすでに、「福島の事故は片付いた」、「ただちに経済復興に取り組むべきだ」というような意見が強まっています。ところがそんなことはない。福島ではなにも片付いてはいないのです。しかし当局やメディアは片付いたかのように言っている。最初からそうです。彼らは最初から事実を隠し、たいしたことはなかったかのように装ってきたのです。ある意味でそれは成功しています。多くの人たちがそれを信じている。信じたいからです。そしたら、今後に反原発のデモは下火になっていくことは避けられない、というふうに見えます。

しかし違います。福島原発事故は片付いていない、今後もすぐには片付かない、むしろ今後に被爆者の病状がはっきりと出てきます。また福島の住民は永遠に郷里を離れることになります。つまり、われわれが忘れようとしても、またじっさいに忘れても、原発の方は執拗に残る。それはいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはこのことです。それでも人々はおとなしく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。そうであれば、日本人は物理的に終わりです。だから私はこう信じています。第一に反原発運動は長く続くということです。第二に、それは原発にとどまらず日本の社会を根本的に変えるちからとなるだろうということです。(盛大な歓声)みなさん!粘り強く闘いましょう!以上です。
(演説書き起こし・松元保昭氏)