■永山則夫が4人を射殺したいわゆる永山事件の死刑判決文が、その後の死刑判決を下す際の大きな基準になってきたと言われている。しかし、そもそもその“基準”という概念自体が、死刑判断の危うさを自ら語っている。それを元に考慮する、という行為に入り込み得る恣意の存在を顕在化させるからだ。生命という人間の根源に関わる取り返しの利かないポイントに、恣意が紛れ込む余地などを作ってはダメなんじゃないだろうか? “基準”を元にその都度考える、という行為自体の“危険性”を断じないでいられるのは何故なんだろうか?
被害者遺族の感情は、量刑の決定の際に過不足なく考慮されるべきだと思う。愛する者を殺された遺族が、容疑者は鬼畜、悪魔だ(人間じゃない、この世にいて欲しくない)、という感情を持つことに対して、同情することは全く難くない。しかし被害者遺族の中には、服役囚がその命朽ちる瞬間まで刑務所で反省し、罪を償い続けることを希望する人がいることもまた事実だ。ということは、被害者遺族の感情を必要以上に量刑に考慮するということは、場合によって判決を死刑に近づける場合も遠ざける場合もあり得るということであり、それは、死刑判断の“基準”という概念とは馴染まない。“被害者遺族の感情”と、“死刑判断の基準”とは2つの別のものであり、前者が後者の客観的妥当性を危うくすることはあっても、それを強化する方向へは働かないと思うのだ。
死刑制度とは、人間が、同じ人間の命に合法的にどこかで線を引いて殺すことであり、それをするならば、その線引きはどこまでも厳格で、極めて普遍的な(そもそも、“基準”などではなく)“決まり”に基づかなければならないはずだ。誰一人誤解し得ない、どんな立場のどんな人間の曲解、恣意的判断、拡大解釈も絶対に許さない、客観性においてMAXに明快な決まりでなくてはならないはずだ。
しかし、死刑制度が存在する中で、そんな“MAXに明快な決まり”などあり得ない。裁判長が、実際にその読み上げる判決文で、犯行の残虐性や遺族の被害感情、世の中へ与える影響といった、程度が多分に曖昧で抽象的な客観基準を量刑判断の理由の一部に盛り込んでいるという事実が示している通り、人間の感情も、世の中の空気的なものまでも、1人の人間(被告人)を(合法的に)殺す理由の中に、大なり小なり含まれ得るのである。そのことが何故肯定されるのかが、ぼくには全く理解できない。ときと場合によって、1人の人間(被告人)を合法的に殺す理由にブレが生じ、そしてこの2009年5月から、そのブレの一端を裁判員制度によって、シロウトの民間人にもかつがせようとしているわけだ。これは、どちらかといえば明らかに、《人の命を真剣に考えない方向》を向いた施策だとしか思えない。全く同じような状況下で起きた20年前の殺人事件の被告は無期懲役となり、今後は死刑になる・・・そんな可能性(この場合の“可能性”とは、人の命に関わる問題である以上、限りなく“間違い”と同義である)を許していいんだろうか?
もしも、死刑の運用に関わる“誰の目にもMAXに明快な決まり”を構築し得るとしたら、理論的に、それは、他者の生命をどう扱うかという考え方に敷衍したときの、極めて明確な、以下のたった2点の上にしか立ち上がってこない。
1:人はいつでも誰でも好きなように他人を殺してよい
2:人はたとえどんなことがあっても絶対に他人の命を奪ってはいけない
1の決まりを作ることは現実問題としてあり得ないが、1と2の間に位置する、“条件つきで殺すことが肯定される”というあらゆる考え方は、その条件に絶対的な普遍性を構築できない以上、人の命を扱う考え方としては、総て、等しく、危うい(*)。これだけの残虐な罪を犯した者は、その命をもって罪を償うべきである、という判断を司法が示すときに、その“死刑に値する罪”と、“ギリギリ死刑を免れる罪”との間の境界線を、どんな裁判であっても、きちんと寸分のブレもなく維持できると誰が断言できるのだろう? もしそれを確実に維持できないのならば、現制度は、別の裁判官ならば下さなかっただろう死刑判決を、今日までに少なからぬ数、生じさせてきた可能性があるということになる。もしそうなら、それは制度に対する反省を求めずに済むことではないはずである。
死刑は(国家が国民を使って行う戦争と同様)上記2点の間にあり、人を殺すことに対して国がお墨つきを与えるものだが、はて、その理由に絶対的な明確性と説得力を伴う、誰が見ても“きちんと正しい死刑”はあり得るのだろうか? あり得ることが納得できたら、ぼくは賛成することに決めている。
(*)正当防衛による不慮の殺人や医療機関における安楽死の補助などは、その中の極めて限定的な例外として考えられると思う。
それまでの間は、刑法上に“きちんと正しい終身刑”を整備して欲しいと願う。絶対的終身刑の論議には、服役囚を収容する刑務所の場所(スペース)や諸費用の問題がつきもののようだが、その建設費用やあらゆる経費だって、役人と政治屋の国費の浪費分、第三セクターのけったいな箱物の無駄と累積赤字を考えればたいした問題ではないはずだが・・・もし、それらの経費に(つまり“罪人の命を生かしておくこと”に)一定の税金を投じるとしても、それは国家の、国民の命に対する扱い方としては至極真っ当なものではないか。・・・それ以前に、国家が国民の命を論じるときに“費用問題”が関わってくるとしたら、そのこと自体、信じ難いのだが。
それに、絶対的終身刑は、死刑と違って“受刑者”と“事件”を両方同時に闇に葬り去らない。だから、今問題になっている足利事件が孕んでいる可能性のように、後年判決の“誤り”が明らかになり、自身の無実を主張し続けてきた受刑者が汚名を返上できる可能性を抹殺しない。犯罪捜査と裁判の段階で“判断の誤り”が生じる可能性が100%否定できないなら、その“誤り”は、たとえ時間が経っても明るみになる必要がある(それで都合が悪いのは警察、検察、裁判官だけだ)。その権力側の誤りを明るみにできる可能性が権力によって制限される国など、そもそも暮らして安心な国であるはずがない。
量刑の重さに関わらず、裁判員制度に関して懸念していることをもう1つ書き加えておきたい。有罪が確定した案件で、のちのち捜査手法のインチキかミスが判明、それが冤罪だったことが明るみになった場合、その裁判に参加して有罪を主張/支持した裁判員が被る可能性のある自責の精神的な苦しみを国はどう考えるのだろうか? それとも、あなた方お上は、その程度のことで良心の呵責に苛まれたり、一生後悔の念を引きずって気に病んでしまうような精神的に“ヤワ”な国民は、この国の国民として不適格だとのたまうのだろうか。それなら(ここまでお読みになってお分かりのように、ナイーヴな)ぼくは、おそらく、不適格ですよね。
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とうとう裁判員制度が始まったが、オレのところに“封筒”が来たら、大体こんな意見を書いて返信しよう・・・と思っていることを下書きしてみた。裁判員制度のみならず、死刑制度の存続自体に頭から疑義を持つ人間をお上はどう扱うのか、見物だ。それとも、最初のアンケートの中にそういう厄介者を排除するための設問でもあるのかしら? それで裁判員にならずに済むんなら、差し当たりの問題については話は早いし、もしそれでも招集されたら、被告が何人殺した凶悪犯であれ、オレはそいつと同じ“人殺し”にはならない。この国でも、人殺しにならない自由くらいは保証されているはずだ。