■踏まれても 根強く生きよ 道芝の やがて花咲く 春も来るらん
(八木重吉)
このところの自民党の内紛劇は、やっつけ仕事のお笑い番組なんかじゃその足元にも及ばないばかばかしさがあって、とにかく保身に汲々とするばかり、国民のことなんてロクに考えていない政党が今まで政権与党第一党だったなんていうこの茶番を笑い飛ばして済ませられるんなら、精神衛生上、どんなに楽なことか。
その中で少々見るものがあるとするなら、あの麻生の打たれ強さ、というかふてぶてしさで、日々のぶら下がり会見などの様子を見ても、政権末期に心が折れて萎えて枯れ草のようになっていった安倍や福田とは、それが褒められることかどうかは別として、何かは明らかに違う。
そんな中、先日のサミットに出るために麻生がイタリアへ行った際に、ヴァチカンのローマ法王ベネディクト16世を表敬訪問したことを伝える報道に、いろいろと気になることがあった。
日本の報道でも麻生が“パパ”に日本製のヴィデオ・カメラをプレゼントしたことは伝えられた。(そのプレゼントの場面はテレヴィ映像や写真で報じられたので、それがソニー製品だったことは見ればすぐに分かるのだが)、おそらく日本のメディアはどこもそのメーカー名は伝えていない。が、米cnetが契約しているフリー・ジャーナリストのマット・ヒッキーは、
《ポウプ(Pope/英語ではこうなる)、ソニーのハンディーカムをゲット》
というタイトルの記事で、ソニー内部の人間によるとそのカメラはソニーのHDR-XR500V HandyCamである、と書いていた。
http://news.cnet.com/8301-17938_105-10282480-1.html
何でパッパ(正しくイタリア風に発音するとこうなるらしい)への献上品にヴィデオ・カメラなのかはよく分かんないが、このニュースでオレが興味を持ったのは《カメラ》ではなくて《ソニー》の方だった。
ソニーとヴァチカンといえば、例の『ダ・ヴィンチ・コード』事件だ。娼婦だったとも言われてきたマグダラのマリアがイエス・キリストの子供を孕んでいたことをダ・ヴィンチが「最後の晩餐」に暗号(コード)として描き込んでいたという内容に対し、ローマ・カトリック教会は、それがイエス・キリストへの冒瀆だとして、映画に対するボイコットを呼びかけたことは記憶に新しい。そのとき世界の多くのカトリック系団体が連帯し、その映画配給会社の親会社ソニーの全製品の不買運動を全世界規模で展開したのだった。
日本みやげに《ソニー》を選んだのは、もしかしたら日本政財界クリスチャン人脈のつきあいの関係なのかもしれないけれど、だとしても一国の総理がローマ法王にソニー製品を直接手渡すというのは、なかなか“勇気”の要ることだ。映画『ダ・ヴィンチ・コード』とソニー社との関連をまるで知らなかったとしたら相当な**(お好きな言葉をどうぞ)だし、いや、我らが日本の宰相に限ってそんな無知なはずはないから、きっと、あの件でソニーに悪気はなかったのですと、お得意の英語でフォロウしたのに違いない。
で、日本の報道は事なかれ&横並びで何も面白くないから、海外メディアがこの点に関して何か伝えてるかなと思って、例えば[ Taro Aso+Da Vinci Code+Sony+ Benedict XVI ]てな感じでいろいろキー・ワード検索してみたが、全然ヒットしなかった。それでも、調べる中でこんな報道にもぶち当たった。
それは、日本のニュースを専門に伝えるフランスのニュース・サイト Aujourd'hui le Japonの7月8日付記事。これはAFP通信による情報を配信しているのだが、この記事は逆に、《ソニー》ではなくて《ヴィデオ・カメラ》の方に興味を持っている。見出しからして《Le Premier ministre japonais offre une caméra au Pape(日本の総理大臣、パップにヴィデオ・カメラを贈る)》だ。
(仏語では“Papa/Pope”は“Pape”となり、また、“caméra”は動画撮影用のものしか指さず、写真機は“appareil (-photo)”という別の語があって厳格に使い分けられているからこうなる)
その記事は・・・ローマ法王に謁見する訪問者は、宗教に関する伝統的な品物を法王に贈るのが通例だが、日本の麻生総理は実にオリジナルなものを贈った、と伝えている。この“型破り”な行為がパップに対する非礼にあたるのかどうかは全然知らないが、この記事で“ヴィデオ・カメラ”と並んでもう1点強調しているのが、麻生が日本の歴史上、初めてのカトリック教徒の総理大臣である、という点だ。見出しと最後の文とで、言い回しを変えて2度も出てくるのだ。
へー! みなさん、そんなこと知ってた? 彼がカトリック教徒だというのは周知のことだけど、日本で初のカト宰相だとは知らなかった。過去の首相の中でも、もちろん吉田茂(私の祖父の吉田茂が、日本の総理として初めてローマ法王に会ったのですよと、麻生は会見でパッパに自慢していた)や、鳩山一郎、大平正芳らがクリスチャンだったことは有名だが、麻生のそのポストも風前のともしびとなった今になって、彼が初のカトリック教徒の総理大臣だったなんていう、パーソナリティーにおけるそんな重要な要素を初めて知ったのはオレだけだろうか? 麻生が総理に就任したときに、少なくともマスメディアのどっかが、そんなこと報道したか? 自主規制する理由があったのかい?
で、今度はそのAFP通信の日本語サイト(AFPBB News)はこの日のことをどう伝えているかと思って見てみたら、なんと、見出しこそ《麻生首相、ローマ法王と会談 ビデオカメラを贈る》で仏語版記事のオリジナルの見出しをほぼ直訳しているものの、記事の中身はというと、上でオレが興味を持って指摘した2点には一切触れず、全く面白くも何ともないものに成り下がっており、写真だけは6枚も見せることでお茶を濁している。ここにも何の自主検閲機能が働いているのか知らないが、AFPBB Newsは、《地球人になろう!国際ニュースコミュニティ》なんていう立派なコピーを掲げているくせに、その麻生のプレゼントが異例であることや、麻生が日本初のカト宰相であることという、“地球人”規模の視点からすると実に興味深いポイントを日本語訳する際にわざわざカットしているのは何故なんだ?
・・・という、またも日本の優良メディアのグロテスクな一面を見てしまった気がした。
オレはレゲエの評論をいろいろとやってきているので、自分はキリスト教徒でもラスタファリアンでもないけれど、当然ながら聖書には、非信徒のわりにはまあまあ興味を持っている方だと思う。で、それらの熱心な信徒がどういう生き方を目指しているかも、ある程度は知っているつもりだ。
そこで思うのだが、そんなキリスト教信者の総理大臣のそのクリスチャンとしての性格が、日本の政治においてどんな存在感を示したのか、という点は、調べるときっと面白いに違いない。クリスチャン宰相がみな品性高潔だったかどうかは知らないが、少なくとも過去に不貞スキャンダルはなかったんじゃないか? とか、クリスチャンであることが、どれだけ国民の支持を得ることにおいて有益だったのか、とか、政権与党の創価学会(原文ママ)はキリスト教や麻生のことをどう思ってるのか、とかね。
で、このテクストのタイトルにしたのは、クリスチャン詩人の八木重吉(1898-1927)の知られた短歌ですが、今日のこの文章に何の関係があるのかというと、いやー、長々読んでもらった最後に申し訳ないのですが、オチは下らない話です。
世論の期待値の高さを背景に、解散のために総理に就任したはずが、リーマン・ショックでその機会を逸し、やること為すこと次々に批判を浴びて、もう麻生じゃ総選挙は戦えないという声が与党内から出始め、内閣支持率も下がっていく。その頃から今のように麻生は耐え忍んでいて、国民の前にあの品のよくない態度を晒し、毒づきながらも、とにかく伝家の宝刀のごとく解散権をその手に握りしめ、片方の奥歯ばっかり噛みしめながら、総理の座だけは投げうたなかった。
そんなときに国民が麻生の資質を決定的に疑問視するにいたったのが、あの、漢字を読めないことがバレてしまった一連のヘマだったわけですが、そのときにオレは想像したのです。麻生は八木重吉のこの短歌を常に、“踏まれても・・・踏まれても・・・”と反芻しながら逆境を耐え忍んできたんじゃないかと。それが身体に染みついていたから、“踏襲”の読みを“ふ”の音から始めてしまったのに違いない、と。
だって、ごくごく普通に考えて、“踏襲”が読めない大人ってそんなにいますか? たまたまあの漢字を読み違えたのは、クリスチャンの先輩で、想像するにおそらく麻生が敬愛し、愛誦している八木のこの短歌のせい、というのが、我らが総理を暖かい目で見ているオレの推理です。
で、3月の新宿《ないかくだとうデモ》に出た際に、イルコモンズさん制作のこのポスターを見て思いっきり吹き出し、オレの推理もけっこういい線行ってたんだなーと思ったのだった。
と、いうようなことを、麻生のヴァチカン訪問報道から一気に思い出してしまったというわけです。