■パティー・スミスのドキュメンタリー映画を観た。“美しく”、実に考えさせられる作品だった。
ファッション・フォトグラファーのスティーヴン・セブリングが11年間の長きに渡ってスミスを撮り続けた映像を編集したものだが、作品は時間の流れに沿ったものではない。一応、彼女の身に起きたこれまでの大きな出来事は順を追って言及されてはいるが、それは単なる確認、あるいはスミスのことをよく知らない観客にこの1人のアーティストの半生に関する基礎的な知識を与える程度のものでしかない。
この作品の主眼は、彼女のこれまでを振り返ることではなく、彼女自身をさらけ出すことにある。痩せぎすで髪の毛はぼさぼさ、パンクでやかましい音楽を作り歌ってきた女性も還暦を過ぎた。そのスピリットは今も、饐えも欠けも朽ちもしていない。その内面に流れるものは、堅固なだけに、静謐でむしろ慎ましい。・・・このドキュメンタリーは、文芸映像作品として明らかにクラシックな話法でそれを綴っていると理解した。
ネガティヴな形容詞を並べるなら、この映画は、つまりこの映画の中のパティー・スミスは、ナイーヴ過ぎで、自然過ぎで、あからさまに過ぎる。
無防備な咆哮の中に、はからずも心の奥底の震えまで滲み出てしまっているような彼女の歌だけで、もう充分なのではないか、という気にもさせられた。こんなに裸を晒さなくとも、レコードの声だけで充分に生々しく、ヒリヒリしているのに、と。
それに、自室で笑顔を見せ、過去を語り、いまだにディランを崇め、つたないギターの弾き語りを聴かせてしまうなんて、“パンク・ロッカー”としてあるまじき行為である!
ファンは、こういうスミスの中の親しみやすい側面、ときに優しいおばちゃん像を欲しているのかどうか、映画を観ながらずっと考えていた。“自然な”、とか、“ありのままの”、とか、“等身大の”、といった安い形容をありがたがる世の中の風潮には、その大抵の文脈において虫酸が走る。つまり、そういうオレがパンクなんだろう。それも、少々頭の堅い。
そんな少々頭の堅いパンクスがこの作品のナイーヴな美しさに少々困惑するとき、そんなことを十二分に予想した上でこういう作りにしたスミスを含む制作者側の意図を考えることが、この映画を観ることと完全に同義になる。
ボブ・ディランが自分の映像作品の中で何かを語るときにそれがロックであること、キース・リチャーズが映像の中で何かを語るときに、それがまたディランとは少々質の異なるロックであること、それらならばストレイトに感じ取ることができると自分では思っているのだが、この作品でパティー・スミスが何かを語る場面の幾つかから受ける彼女の無垢さは、オレの親しんできたロックのピュアさとは次元が違っていて、受け手(彼女のレコードのファン)としてどう気持ちの中で対処していいのか分からなかった。そんなにイノセントだと困る、みたいな気分だったのだ。
オレはロックを信用しているから、オリコン・チャートの常連の“ロック”を信用しない。そんな自分にとって、パティー・スミスは数多くない信用できるロックだという確信があるから、この作品の何箇所かで感じた困惑も、きっとそのロックの一部であるだろうことは容易に想像できる。オレには、彼女からまだ学ぶべきロックがあるということだろう。それが思い違いでないとしたら、これは実に素晴らしい作品だ。その可能性が高い。だからもう一回観に行こう。
この映画に対して日本の著名人が大勢、絶賛の声を寄せているのも読んだ。オレはそういう人たちよりも鈍感なのか、彼らほどパティー・スミスのことを実はよく知らなかったのか、もしくはその両方だと思う。
http://www.pattismith-movie.com/