■10月3日、フランス/ブルゴーニュ、裸のインスタレイション。アメリカの写真家、あのスペンサー・チュニックだ。
オーガナイズしたのはグリーンピースとチュニックで、これらの作品は同団体のウェブ・サイトで見ることができる。
ワインで世界的に有名なブルゴーニュ地方のぶどう畑に、チュニックは全員ヴォランティア(=報酬なし/チュニックのサイン入りで写真がもらえるだけ)からなるモデル713人を配置して、今回は4つのインスタレイションを作った。女・男だけのものが1つずつと、一緒になったものが2つだ。
それらで《気候の変調に対する人間とその文化の傷つきやすさ》を表現したのだという。前掲サイトにはこうある。
「私たちのぶどうの木、私たちのガストロノミー(*)、私たちの地球は、気候の変動によって、そして“世界共同体”のこの問題に対する消極的な態度によって危機にさらされている。コペンハーゲンのCOP15 まであと2ヶ月、今、政治家たちはドラスティックに対応しなければならない。何故ならば、スペンサー・チュニックが言うように、“自然はちょうど今、これまでの人間たちによる暴力的支配に対して反撃しているところなのだから”」。
それは、いわゆる“日本メイプルソープ裁判”の前の話だ。そしていまだに我々日本人は、我々の国を代表する映画監督の1人、大島渚が作ったままの『愛のコリーダ』を観るために、飛行機に乗ってどっか遠い外国に行かなくてはならない。
「私たちのぶどうの木、私たちのガストロノミー(*)、私たちの地球は、気候の変動によって、そして“世界共同体”のこの問題に対する消極的な態度によって危機にさらされている。コペンハーゲンのCOP15 まであと2ヶ月、今、政治家たちはドラスティックに対応しなければならない。何故ならば、スペンサー・チュニックが言うように、“自然はちょうど今、これまでの人間たちによる暴力的支配に対して反撃しているところなのだから”」。
(*日本におけるこの語の一般解釈は、食べる行為にだけフォーカスされたかなり限定的なものだ。想像するに、こういうイヴェントに参加する市民・・・別の言葉で言うと活動家・・・は、むしろ我々が考えるような“美食”習慣を積極的に讃美しない人たちが多いんじゃないかと思う)
参加者の女の子の1人(別に自然回帰主義者/ヌーディストではなく、人前でこんな風に裸になったことが一度もない女性)の体験談を読んで面白かったのは、彼女がこの“作品”について述べていることの他にも、「大勢で裸になると、驚くことに、他人との距離が縮まる。(互いに見知らぬ参加者同士、)服を着ているときよりもずっとわけなくコミュニケイションが取れた」と語っていることだった。いろいろな意味で含蓄のある言葉だ。
このインスタレイションのことを、フランスのテレヴィはもちろん、世界中の多くのメディアが取材し報道したようだが、日本のテレヴィや新聞はどこかきちんと報じたんだろうか?
見知らぬ人の前で全裸になることに対する各自の個人的な考えなどは、当然ながら、この場合どうでもいい。肝心なのは、この主催者、アーティストと参加者たちの想い(問題意識、アイディア)だ。
そしてそれは、京都議定書での目標を全然守れていないばかりか、ますます温室効果ガスの排出量が増えているこの国・・・そしてエコを口実に、政府と経団連が結託して新しい電気製品をガンガンに売った(それで社会のほんの一部の人間だけを潤し、まだ使える製品を大量にゴミにした)この日本でも大きく報道して、政府や役所や財界の連中や国民を刺激するのに効果的な価値あるものなんじゃないか? と思うのだ。
(とはいえ、この真摯な運動を報じる際に陰毛や性器をボカシたりしたら、この作品の肝にある“自然性”そのものが否定され、つまり、起きたことを正しく伝えるという報道の理念にもとるものになってしまうわけだが・・・)。
話の軸は変わるが・・・マドンナがマイケル・ジャクソンとの思い出を語った映像をさっきじっくり観たばかりだったので思い出したが、ぼくがタワーレコードで働いていたときに、マドンナの写真集がアメリカ(だったよな・・・)で発売になり、それの輸入時に、マドンナの陰毛が写っていることが理由で商品が税関で止められたことがあった。で、それを海外にオーダーした輸入レコード店や輸入書店などはどこも、誰か従業員を税関まで出向かせ、彼らはそこの一室にこもって何日間か朝から晩まで、マドンナの股間(その写真集に何箇所写っていたのか、詳しいことは忘れたが)に紙やすりをかけていたのだ・・・ペイジに穴が開かないように細心の注意を払いながら・・・。が、いくら注意を払おうと、日本のマドンナ・ファンが写真集のキズモノを新品として買わされたことに変わりはない。
それは、いわゆる“日本メイプルソープ裁判”の前の話だ。そしていまだに我々日本人は、我々の国を代表する映画監督の1人、大島渚が作ったままの『愛のコリーダ』を観るために、飛行機に乗ってどっか遠い外国に行かなくてはならない。