10.26.2009

オレは何故、同性愛者ではないのか?

■と自問しても、今のところオレの答えは1つしかない。それは、“気がついたら同性愛者ではなかった”からだ。疑問に対して立てる答えとしてはまるで説得力がないが、説得力などなくて当然だ。だいたいにおいて、“自然にそうだった”ことに対して理由などないのが当たり前だし、よって説得力なんてなくていい。人間として〈同性愛者ではない〉こと自体が何か重要な意味を持つわけではない。その一方で、自分が今後も同性愛者にならないと判断する根拠だって、何も持ち合わせていない。

そしてそれは〈自分は何故、同性愛者なのか?〉という問いを立てる人にとっても全く同じであるはずだ。つまり、オレは今、単に〈同性愛者ではない〉だけであって、過去も未来も〈同性愛者と同じ〉人間であるという、至極当たり前のことを確認するだけの話なのだ。

・・・という考え方でいくと、同性同士の結婚が男女の結婚から差別される理由は見当たらないのだが、実は日本以外でも、同性同士が結婚できない国はまだ結構ある。で、知る限り、それらの国の多くは、その考えの根拠を、同性愛そのものをタブー視する宗教観に置いているようだ。

しかし、**のひとつ覚えのように、聖書が同性愛を禁じていると信じ続けている人たちは、現代の聖書解釈の主流となっている学説に耳を傾けてみるべきだろう。そもそも聖書には神が同性愛を禁じると明言した箇所は一箇所も出てこないし、同性愛を禁忌とする考え方の根拠となってきた〈ソドムとゴモラ〉の罪のくだりにおいても、神の怒りを買うその“罪”が“同性愛”のことだと解釈することに正当性を見つけられるだけの根拠はまるでない、というのが今日までの聖書研究の客観的に有力な結論なのである。

キリスト教の比較的理性的な教派は、その結論に対するリアクションとして、今まで同性愛を否定視してきた自らの考え方に対する何らかの反省をこれまでも公に表明してきた。そしてつい先日も、スウェーデンのルター派教会会議でも同性愛者の結婚を認める議決がなされたばかりで、この議決は時間を空けずにこの11月01日より発効することになった(同国では、同性婚を認める法律は先に施行されている)。

22日付けのスウェーデンの英字新聞『The Local』は、《Church of Sweden says yes to gay marriage》という見出しでそれを報じている。



“Church of Sweden”は、スウェーデン国民の4人に3人が属している宗派であり、対してカトリックや正教会は、記事によると、この決定に落胆している。

いずれにしても、これでスウェーデンは、スペイン、ベルギー、オランダ、ノルウェーに続き、国内の主流の教会が同性愛カップルの結婚式を執り行うと決めた国になった。

知られていることだと思うが、フランスのPACS(民事連帯契約法)など、異性間の婚姻関係に準じた権利を同性カップルにも認めるいわゆる“パートナーシップ法”などの法律によって、同性カップルの権利を保護している国も多い。

さて、カトリック教国でもイスラム教国でもなく、宗教的なハードルはないはずの日本でこの議論が表だってなされないのには何かしら特殊な事情があるのかもしれないが、曲がりなりにも民主主義国家になるんだったら、いつまでもそれでいいはずはなかろう。声を挙げるべき人たちが声を挙げられず、ひっそりと暮らすことを強いられるような国の状況には、同じ国の民として重苦しさと息苦しさを伴う嫌な危機感を感じている。

今朝もコーヒーを飲みながらテレヴィのワイドショウを眺めていたが、押尾のりピー報道の時間からほんの30秒、こういうニュースを報じる時間を割けないもんかなとつくづく思う。あるいは、日本の主力メディアがこういうニュースを国民に伝えたがっていないのだろうか。こっちは全人類の尊厳に関わるニュースなのだが・・・。

とにかく、ニュースそれ自体にも貴賎はあるし、当然それを報じるメディアにも歴然たる貴賎があると思う。