7.31.2009
させていただく
■って言葉、いつからこんなに安く使われるようになったんだろ。世の中に、そんなにへりくだるシチュエイションがたくさんあるかね?(あるとしたらオレはとっくに自殺してるな)。何で用事があって向こうからやって来たヤツに対して、「古賀さんとお話しさせていただきました」となるのか? 対等に会ってるのに、なんで「お会いさせていただきました」になるんだろ。当然の仕事をやってるだけなのに、何で「国会に○○の法案を提出させていただきました」なのか?毅然と、「しました」「いたしました」って言うんじゃダメな理由は何だべさ。
仮に“ビジネス・トーク”であれ、とにかくやたらと丁寧チックな表現を、電気製品の箱に入ってる発泡スチロールの緩衝材のように自分の言葉の中に詰め込むクセがついているヤツは、経験上信用ならないな。こっちはストレートに話がしたいのに、オレとの間に気持ち悪いふにゃふにゃの盾を何重にも立ててくるようなヤツ。こっちは、ごくフレンドリーに、対等に話そうとしてるのに、向こうが勝手に(自覚的であるにせよ、ないにせよ)腰を低くして、ズルズルと一方的に地面にもぐっていって、目から上だけ出して上目使いでチロチロこっちの反応をうかがってる感じのヤツだ。
もし相手の腹に一物あってそれが戦略だとしたら、そんな邪悪なヤツはスナフキン流に一切相手にしたくないところだ。もし相手がそうでないなら、それって正面から目を見て会話すべき相手から一方的に目線を外す、慇懃どころか卑屈で無礼な行為だと思う。オレは花粉じゃないんだから、会話するときはその防御メガネとマスクを取ってくれ、人と握手するときはそのゴム手袋を外してよ、という気になる。
へりくだれば自分を護れると思ってんのかな、例えばタチの悪いクレイマーかなんかから・・・。なんだか、オレらの税金で生きてる政治屋を筆頭に、世の中の多くの人間が、とにかく自分を護ることに汲々として常に(おそらく下らない)何かから逃げ回っているように思えるのだ。空気が濁ってるのは、その無駄なエネルギー放出のせいかもしれん。
ためしに、意中の相手とセックスするときもその表現を使ってみろよ。人間の尊厳はめでたくゼロになるよ。
7.24.2009
大西ユカリ
■今週、日食は見なかったが、ナニワの太陽を見た。新世界のリン・コリンズは、皆既どころか一分の翳りもなく、明徹な快晴そのものだった。と、いうような少々ベタな比喩使いがしっくりくる。彼女は我らの、文字通りの、ポピュラー歌手だからだ。
そのくせに、ここ東京では残念ながら彼女の姿をテレヴィで見る機会はほとんどなく(少なくともオレにはなかった)、プロモーション用の映像以外では、今までに動く彼女をきちんと見たことがなかったので、実際にどういう感じの人なのかに興味があった。《平成のゴッドねえちゃん》の異名を取るが、和田アキ子のように歌え、パンチがあり、ファンキーなシンガーであることは、CDを聴けば充分に分かる。でも、ということは、どこかがらっぱちで、少し居丈高なところがある人なのかなと思っていたのだ。が、それが全然違った。
満面の笑顔からこぼれる白い歯と、体を折った腰のカーブで「ありがとう(イントネイション注意)」を言う感じは、さながら左右の手にマイクと串かつを持った聖姉のごとし、奥床しく、強烈にキュート。
シリアスな歌詞を歌う際のキリッと怖いくらい鋭い目つきは、そのヴァースが終わって間奏に入った瞬間に、客席からの割れんばかりの拍手と掛け声で破顔するのだが、その振り幅がクラクラするくらいチャーミングなのだ(ワン・コーラス終わるごとに聴衆がステージに拍手を浴びせる様式は、完全に昭和歌謡ショウである)。
彼女はその昭和の歌謡曲/演歌歌手と、ディープ・ソウル/ブルーズ・シンガーとしての配分を、ハード・ディスクのパーティションを切り直すみたいに、曲ごとに自在に調節する。じっとり湿った不倫ソングから、燃費リッター2kmのアメ車のコンバーチブルに乗って海風と排気ガスを感じるグルーヴィーなロックン・ロールまで、その歌芸の幅と深みのある味わいは、毎曲ごとに、曲のエンディングが1秒でも遅くあって欲しいと思わせる。で、そういう音楽ほど、一瞬で終わってしまう。で、ショウを見ている最中に既に、次はいつ東京で演るんだろう、と思う。
また、ユカリ姉さんは、ときおりそのパーティションの円グラフとはまるっきり別のモードで歌ったりもする。
例えば今年の初ソロ作、素晴らしい『HOU ON』に入っていた故・高田渡の「値上げ」のカヴァーなんかもそうだが、それを昨日の吉祥寺スターパインズカフェでのショウでは、(アルバムでも同曲で弾いていた)ゲストの中川イサトのアコースティック・ギター1本で歌った。“吉祥寺の歌手”高田渡の曲を、彼と親交の深かった、つまり大阪と武蔵野を結んだフォークの生き証人中川イサトのギターで大西ユカリが歌うのを吉祥寺で生で聴くなんていうのは、これまた相当にスペシャルで感動的なことで、そんな文化的コネクションの豊饒さの中においてのみ、オレは愛国主義という名の目まいに抵抗しないのだ。
それと、バック・バンドのオヤジ連の、小さな小屋を震わす生々しい演奏がまた素晴らしかった。味のいい小技を涼しい顔で細部にふんだんに盛り込んだ、ゴージャスじゃないけど剛健な、ブルージーな加齢臭だけ放ち、体脂肪は極めて少ないプロの音だった。
二部構成のショウ(そのどっちも衣装のクールだったこと!)は、正味2時間、隅々まで一瞬も飽きさせず、とにかく微笑ましく、パワフルで愛らしいものだったが、最後の「Blues Man」(『HOU ON』収録)では、体中が痺れて、ちょっと泣きそうになった(そんなことは滅多にない)。
・・・しかし東京の、特に武蔵野の民よ。
昨日の夜7時半に大西ユカリを見ずに、一体何をしていたのだ?
7.22.2009
Thunder
this kind of thunder break walls and window pane
7.21.2009
End Capitalism
■今週の土曜日に行こうと長らく思っていたイヴェントに行けなくなった! 魅力的なイヴェントは何故、日が重なるのか?
解せない。
そのイヴェントはこれ、《音楽夜噺》。
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第38夜:'09年7月25日(土)
マージナル・ビーツの最前線~進化を続ける辺境ビーツの現在とその源流
対談:大石始(ライター/エディター、南国愛好家)x 吉本秀純(音楽ライター)
いわゆる在英インド移民たちによるバングラ・ビートから、マヌ・チャオ以降のバルセロナ・ミクスチャーやバルカン・ビート、急速なクラブ化の著しいボリウッドやアラブ・ポップス、さらには現在進行形で今まさに増殖中な南米発のデジタル・クンビアやアンゴラ発のクドゥロなどに至るまで。youtubeやmy space などの急速な浸透の影響もあって“ワールド・ミュージックとクラブ・ミュージックの《メルティング・ポット》”は、明日にも世界中のどこから何が飛び出してくるかわからないスリルと刺激を宿している。欧米クラブ側~非西欧圏(ワールド)側からの双方の動きとその源流も振り返りつつ、世界中の音楽にアンテナを張る2人の論者がマージナル・ビーツの最前線をレポートします。
会場:東京・渋谷 ダイニングバー Li-Po
渋谷駅東口より徒歩2分
東京都渋谷区渋谷3-20-12 Sunx Prime Bld. 2F
TEL:03-6661-2200
時間:16:00-18:15(開場15:30)
入場料:予約¥1,800(1drinkつき)
当日¥2,300(1drinkつき)
詳細はこちらまで↓↓↓
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『ミュージック・マガジン』の年間レゲエ・ベスト・アルバムを合議で決めるパートナーの大石さんの登場、不義理を働くのは心が痛い。ここで告知してその埋め合わせになるわけではないですが、ちょっと気になる方へは強く推薦しておきます。
会場のLi-Poも、粋(酔)人のための素敵なお店です。週末の夕方、東横線の線路越しに傾く夕陽が差し込む店内で、このお2人のような識者にしか語れない刺激的な音楽の楽しみを味わうのは、実にレアで充実した時間の過ごし方になると思います。
で、こんなに長らく楽しみにしていたイヴェントに行けなくなった理由はデヴィッド・グレーバーの来日/シンポジウム。バッチリ時間が重なってしまう・・・。ほんと悔しいけど、仕方ない。
7.17.2009
踏まれても 根強く生きよ 道芝の・・・
■踏まれても 根強く生きよ 道芝の やがて花咲く 春も来るらん
(八木重吉)
このところの自民党の内紛劇は、やっつけ仕事のお笑い番組なんかじゃその足元にも及ばないばかばかしさがあって、とにかく保身に汲々とするばかり、国民のことなんてロクに考えていない政党が今まで政権与党第一党だったなんていうこの茶番を笑い飛ばして済ませられるんなら、精神衛生上、どんなに楽なことか。
その中で少々見るものがあるとするなら、あの麻生の打たれ強さ、というかふてぶてしさで、日々のぶら下がり会見などの様子を見ても、政権末期に心が折れて萎えて枯れ草のようになっていった安倍や福田とは、それが褒められることかどうかは別として、何かは明らかに違う。
そんな中、先日のサミットに出るために麻生がイタリアへ行った際に、ヴァチカンのローマ法王ベネディクト16世を表敬訪問したことを伝える報道に、いろいろと気になることがあった。
日本の報道でも麻生が“パパ”に日本製のヴィデオ・カメラをプレゼントしたことは伝えられた。(そのプレゼントの場面はテレヴィ映像や写真で報じられたので、それがソニー製品だったことは見ればすぐに分かるのだが)、おそらく日本のメディアはどこもそのメーカー名は伝えていない。が、米cnetが契約しているフリー・ジャーナリストのマット・ヒッキーは、
《ポウプ(Pope/英語ではこうなる)、ソニーのハンディーカムをゲット》
というタイトルの記事で、ソニー内部の人間によるとそのカメラはソニーのHDR-XR500V HandyCamである、と書いていた。
http://news.cnet.com/8301-17938_105-10282480-1.html
何でパッパ(正しくイタリア風に発音するとこうなるらしい)への献上品にヴィデオ・カメラなのかはよく分かんないが、このニュースでオレが興味を持ったのは《カメラ》ではなくて《ソニー》の方だった。
ソニーとヴァチカンといえば、例の『ダ・ヴィンチ・コード』事件だ。娼婦だったとも言われてきたマグダラのマリアがイエス・キリストの子供を孕んでいたことをダ・ヴィンチが「最後の晩餐」に暗号(コード)として描き込んでいたという内容に対し、ローマ・カトリック教会は、それがイエス・キリストへの冒瀆だとして、映画に対するボイコットを呼びかけたことは記憶に新しい。そのとき世界の多くのカトリック系団体が連帯し、その映画配給会社の親会社ソニーの全製品の不買運動を全世界規模で展開したのだった。
日本みやげに《ソニー》を選んだのは、もしかしたら日本政財界クリスチャン人脈のつきあいの関係なのかもしれないけれど、だとしても一国の総理がローマ法王にソニー製品を直接手渡すというのは、なかなか“勇気”の要ることだ。映画『ダ・ヴィンチ・コード』とソニー社との関連をまるで知らなかったとしたら相当な**(お好きな言葉をどうぞ)だし、いや、我らが日本の宰相に限ってそんな無知なはずはないから、きっと、あの件でソニーに悪気はなかったのですと、お得意の英語でフォロウしたのに違いない。
で、日本の報道は事なかれ&横並びで何も面白くないから、海外メディアがこの点に関して何か伝えてるかなと思って、例えば[ Taro Aso+Da Vinci Code+Sony+ Benedict XVI ]てな感じでいろいろキー・ワード検索してみたが、全然ヒットしなかった。それでも、調べる中でこんな報道にもぶち当たった。
それは、日本のニュースを専門に伝えるフランスのニュース・サイト Aujourd'hui le Japonの7月8日付記事。これはAFP通信による情報を配信しているのだが、この記事は逆に、《ソニー》ではなくて《ヴィデオ・カメラ》の方に興味を持っている。見出しからして《Le Premier ministre japonais offre une caméra au Pape(日本の総理大臣、パップにヴィデオ・カメラを贈る)》だ。
(仏語では“Papa/Pope”は“Pape”となり、また、“caméra”は動画撮影用のものしか指さず、写真機は“appareil (-photo)”という別の語があって厳格に使い分けられているからこうなる)
その記事は・・・ローマ法王に謁見する訪問者は、宗教に関する伝統的な品物を法王に贈るのが通例だが、日本の麻生総理は実にオリジナルなものを贈った、と伝えている。この“型破り”な行為がパップに対する非礼にあたるのかどうかは全然知らないが、この記事で“ヴィデオ・カメラ”と並んでもう1点強調しているのが、麻生が日本の歴史上、初めてのカトリック教徒の総理大臣である、という点だ。見出しと最後の文とで、言い回しを変えて2度も出てくるのだ。
へー! みなさん、そんなこと知ってた? 彼がカトリック教徒だというのは周知のことだけど、日本で初のカト宰相だとは知らなかった。過去の首相の中でも、もちろん吉田茂(私の祖父の吉田茂が、日本の総理として初めてローマ法王に会ったのですよと、麻生は会見でパッパに自慢していた)や、鳩山一郎、大平正芳らがクリスチャンだったことは有名だが、麻生のそのポストも風前のともしびとなった今になって、彼が初のカトリック教徒の総理大臣だったなんていう、パーソナリティーにおけるそんな重要な要素を初めて知ったのはオレだけだろうか? 麻生が総理に就任したときに、少なくともマスメディアのどっかが、そんなこと報道したか? 自主規制する理由があったのかい?
で、今度はそのAFP通信の日本語サイト(AFPBB News)はこの日のことをどう伝えているかと思って見てみたら、なんと、見出しこそ《麻生首相、ローマ法王と会談 ビデオカメラを贈る》で仏語版記事のオリジナルの見出しをほぼ直訳しているものの、記事の中身はというと、上でオレが興味を持って指摘した2点には一切触れず、全く面白くも何ともないものに成り下がっており、写真だけは6枚も見せることでお茶を濁している。ここにも何の自主検閲機能が働いているのか知らないが、AFPBB Newsは、《地球人になろう!国際ニュースコミュニティ》なんていう立派なコピーを掲げているくせに、その麻生のプレゼントが異例であることや、麻生が日本初のカト宰相であることという、“地球人”規模の視点からすると実に興味深いポイントを日本語訳する際にわざわざカットしているのは何故なんだ?
・・・という、またも日本の優良メディアのグロテスクな一面を見てしまった気がした。
オレはレゲエの評論をいろいろとやってきているので、自分はキリスト教徒でもラスタファリアンでもないけれど、当然ながら聖書には、非信徒のわりにはまあまあ興味を持っている方だと思う。で、それらの熱心な信徒がどういう生き方を目指しているかも、ある程度は知っているつもりだ。
そこで思うのだが、そんなキリスト教信者の総理大臣のそのクリスチャンとしての性格が、日本の政治においてどんな存在感を示したのか、という点は、調べるときっと面白いに違いない。クリスチャン宰相がみな品性高潔だったかどうかは知らないが、少なくとも過去に不貞スキャンダルはなかったんじゃないか? とか、クリスチャンであることが、どれだけ国民の支持を得ることにおいて有益だったのか、とか、政権与党の創価学会(原文ママ)はキリスト教や麻生のことをどう思ってるのか、とかね。
で、このテクストのタイトルにしたのは、クリスチャン詩人の八木重吉(1898-1927)の知られた短歌ですが、今日のこの文章に何の関係があるのかというと、いやー、長々読んでもらった最後に申し訳ないのですが、オチは下らない話です。
世論の期待値の高さを背景に、解散のために総理に就任したはずが、リーマン・ショックでその機会を逸し、やること為すこと次々に批判を浴びて、もう麻生じゃ総選挙は戦えないという声が与党内から出始め、内閣支持率も下がっていく。その頃から今のように麻生は耐え忍んでいて、国民の前にあの品のよくない態度を晒し、毒づきながらも、とにかく伝家の宝刀のごとく解散権をその手に握りしめ、片方の奥歯ばっかり噛みしめながら、総理の座だけは投げうたなかった。
そんなときに国民が麻生の資質を決定的に疑問視するにいたったのが、あの、漢字を読めないことがバレてしまった一連のヘマだったわけですが、そのときにオレは想像したのです。麻生は八木重吉のこの短歌を常に、“踏まれても・・・踏まれても・・・”と反芻しながら逆境を耐え忍んできたんじゃないかと。それが身体に染みついていたから、“踏襲”の読みを“ふ”の音から始めてしまったのに違いない、と。
だって、ごくごく普通に考えて、“踏襲”が読めない大人ってそんなにいますか? たまたまあの漢字を読み違えたのは、クリスチャンの先輩で、想像するにおそらく麻生が敬愛し、愛誦している八木のこの短歌のせい、というのが、我らが総理を暖かい目で見ているオレの推理です。
で、3月の新宿《ないかくだとうデモ》に出た際に、イルコモンズさん制作のこのポスターを見て思いっきり吹き出し、オレの推理もけっこういい線行ってたんだなーと思ったのだった。
と、いうようなことを、麻生のヴァチカン訪問報道から一気に思い出してしまったというわけです。
7.11.2009
NO G (oddamn)8
■災いサミット閉幕。
毎度のごとく、何かを《確認》するか、《取り組みを約束》するか(→どっちみち私の任期内に結果の出る話じゃないからねぇ・・・)、《懸念を表明》することしかしない立派な会合だが、そういう“世界のリーダー”然とした、あるいは、他人事の“被害者”然としたポーズは、今の弱肉強食型で思いっきりグロな世の中を作ってきたバビロン・システムの悪行を覆い隠すための単なる目くらましである。
そんなときに日本の政治屋もメディアも、“解散”だ“退陣”だとピーチクパーチク、G8の本質問題に比べたら、まるでカスみたいな問題がこの国の最大の関心事なんだから、その近視眼体質、大局観の欠如ぶりは、まことに病的。まあ、その麻生もラクイラでカスみたいな扱いを受けたようだが、悪人にもランクがあるんで、まあ分相応ってことで。・・・それに他のG(ang)の親方衆も、「どうせコイツも来年は別のヤツに代わってんだろ・・・ところでコイツの前の前、誰だっけ?」てなもんで、誰も本気で相手になんかしないわな。
今年は諸事情あってローマの抗議デモに行けず、残念だった。が、サミット体制という名の“地球上で最悪の偽善”の所業は、会合がどこの国で持たれようと、開催期間外だろうと、常に監視が必要だ、被害の当事者として。
7.10.2009
カルチュラル・タイフーン(その2)/アナーキスト ドラム ギャザリング
■先週末の《カルチュラル・タイフーン 2009》@東京外国語大学の話の続き。
《第一回 日本バビロン検定試験》については、主催協会のバビロン診断士が自ら事後のコメントを発表した。今後、検定結果についての詳しいレポートもなされるらしい。
で、オレは土・日の2日間、いろんな人と会い、いろんな話をし、シンポジウムやワークショップに参加し、夜遅くまで大学構内の中庭で仲間たちとビールやワインを飲み、そしていくつかの物を買った。忘備録的に書いておくと:
たとえば、土曜日には下北沢の大好きな古書カフェ気流舎の加藤さんが出るので注目していた《出版、書店、流通のオルタナティヴ》というシンポジウムに参加。
・月曜社 取締役 小林浩氏
・東京外国語大学出版会 編集部 竹中龍太氏
・気流舎 加藤賢一氏
・Numabooks 内沼晋太郎氏
・大阪屋 営業部 特販第1課 鎌垣英人氏
・(司会)一橋大学言語社会研究科院生 須納瀬 淳氏
といった興味深い面々による、出版業界の、そして書籍の新たな可能性と近未来の姿/あり方について考える、3時間半に及ぶセッション。
日曜に参加して面白かったシンポジウムは、ブラックリストの会 in東京が主催した《大学、知識人、反資本主義——大学はなぜタダでなければならないのか?》で、パネルには矢部史郎、白石嘉治、松本麻里の各氏、『VOL』の編集委員としても知られる3人がセッションした。
また、土曜日には『レゲエ・トレイン』(青土社)の著者として、あるいは上野俊哉さん、毛利嘉孝さんとの共訳による、ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック 近代性と二重意識』(月曜社)などで著名な、今は関西学院大学で教えてらっしゃる鈴木慎一郎さんとしばらくぶりで会って、学食で一緒にメシを食いながらいろいろと話した。2人で歩いているときに毛利さんにもお会いしたが、他の方とお話し中だったので、会釈するのみ。そのときに慎一郎さんからポール・ギルロイの和光大学での講演録冊子をいただいた。
その講演でギルロイは、ボブ・マーリーの存在とその音楽性からポスト/アンチ植民地主義のあるべき姿を考えているのだが、慎一郎さんはその内容を受けて、今も“健在”なマーリーの“亡霊”についてのテクストを、誰もが頷ける実例を多く挙げながら(今年のオバマ就任記念コンサートなどごく最近の事例にも触れている)書かれていて、いただいた冊子にはそれも収められている。調べてみたら、その慎一郎さんの面白いテクストの全文はここで読めるので、少なくともマーリーが好きな人には是非読んでもらいたい。
あとはRLLのブースでTシャツ、模索舎のブースでは本を眺め、IRAの物販ブースで『東京なんとか(7月号)』を拾ったり、未読だったジンや雑誌を買った。あとサパティスタのスローガン《わたしたちみんなサパティスタ》を縫った生地片(好きな服などに勝手に縫い付ける用)付きのバッヂ(¥150)も。
しかし、今年の《カルタイ》で自分にとっての一番の目玉だったのは、イルコモンズさんがファシリテイターを務めるワークショップ《アナーキスト ドラム ギャザリング》だった。このブログを書くのが遅くて、既にイルコモンズさんのブログに、当日参加したyoyoさんや3000さんのいいレポートが載っているので、恥ずかしながら、もう彼女たちの文章にほとんどつけ加えることはない。
(総ての写真がそうですが、クリックすると拡大されます)
“アナーキズム”と“人が集まってドラムを叩くこと”にどんな関連があるのだ? という読者に対してこのワークショップの意味するところ、その意義を簡単に説明するなら・・・この試みは、みんなで輪になり、誰にも強制も管理もされない状態で、それぞれバラバラな打楽器(個性)を手に持ち、バラバラの律動(=リズム・・・行動、考え方と読み替えられる)を表現する中で、各人が他人のリズムをよく聴きながら、みんな(集団、社会)との距離感を測り、その中に自分を位置づけ、ときに自律的に主張し、ときに周囲を支える方にまわり・・・そんな調子で各自の自由を最大限に尊重しつつ、共通の目的である“よりよいグルーヴ”(=自由と協調とのバランスが取れたポイントに立ちのぼってくる、連帯社会の中で生きることの高揚感)に向かっていくための実験。要するに理想的なアナキズム社会を、リズムのウネリによって現前化させる試みというわけだ。
もちろん、このグルーヴはそれを体現すると同時に、対バビロンの路上デモの現場では非暴力の抵抗と主張の言語としても機能するから、そのためのトレーニングでもある。
このワークショップに続いて屋外で行われた uran a gel(ウランアゲル)+T.C.D.C.のライヴにも飛び入りでドラムを叩かせてもらった。
こういう楽しいイヴェントは、ここでも事前に告知しておくべきだったと、つくづく思う。
最後にこの2日間に体験したことの中からもう1つだけ書いておくなら、それは惜しくも昨年亡くなった筑紫哲也さんの遺族から寄贈された彼の蔵書を我々に分けてくれるブースも出ていて、そこで本を買ったことだ(買値は定価の半額を最低金額として、買う人が自由に決められる)。そこでの売り上げは全額、9月に東京・渋谷で開催される、全国の市民メディアが一堂に会する《TOKYO メディフェス2009》の開催資金の一部に充てられる。
最近では雑誌『en-taxi』でも特集が組まれていたけれど、同じく去年、筑紫さんより半年ほど前に他界した草森紳一さんの蔵書がたいへんなものであることは有名だが、ちょっとしたご縁があって、亡くなったあとのその蔵書の整理を、昨年少しだけお手伝いした(と言うのもはばかられるほど、少しだけ、だったのだが)。
その蔵書整理プロジェクトのブログもある。
そしてその草森さんの随筆、読みたいと思っていたのに買い漏らしていた『本が崩れる』を、筑紫さんの蔵書の中に見つけたのだ。欲しかった草森さんの著書を筑紫さんの蔵書から分けてもらうなんて、ちょっとした体験でしょう?
合わせて、筑紫さんが雑誌『話の特集』に連載していたコラムをまとめたエセー集で、現在絶版の『筑紫哲也のき・ど・あい・らく』も、ご本人の持ちものから分けてもらった。
有意義な週末を過ごし、そして、いい経験に加え、読みたいものが目の前に積み上がる。こんなに楽しいことはない。
7.06.2009
カルチュラル・タイフーン(その1)/第一回 日本バビロン検定試験
■始まる前に告知すりゃいいのに、自分が行くことばっかり考えてしまい、終わったあとで書くっていう・・・まだブログ馴れしてないオレですが、この週末は土・日ともに国立東京外国語大学(東京都府中市)で行われた《カルチュラル・タイフーン 2009》に行ってきた。
この《文化台風》なるイヴェントのポリシーをオフィシャルHPから一部だけ抜き出すと、
《新自由主義が吹き荒れる現代世界において、グローバル化の破断点はいたるところにむき出しになってきました。そうした現場にはきまって文化の抑圧、横領、消去が起こっているのですが、同時にまた、その危機の中からさまざまな抵抗と新しい表現も生まれだしています》
《自分たちが文化研究の学問的ルーティンワークのなかに萎縮してしまう傾向に注意深くありたい、そしてある種の知的台風として、思想的な異議申し立てという雨風をもたらす存在でありたい》
・・・つまりひと言でいえば、今、抵抗と新しい表現とによって世界に異議を申し立てることを必要としている人たちのための学会&学祭のようなものです。
で、電車4本も乗り継いでそこに何をしに行ったかというと・・・そこは由緒ある名門大学、まずは会場到着直後に超話題の試験を受験した。それは日本バビロン検定協会主催《第一回 日本バビロン検定試験》。念のため、この試験を知らなかったという人たちのために・・・
★日本バビロン検定協会とは? ・・・日本バビロン検定協会は、全国民が安心・安全に暮らせる、より良い社会の実現を目指し、検定試験(思想チェック機能付)を通して、「バビロン」という理想のコントロール・システムの普及を目的に設立されました。(協会HPより)
バビロン=新自由主義体制下を生き抜くためには、まず自分のバビロン度をチェックせよ、という実に現実的で有益な検定試験として、多くの国民から長らくその実施が待たれていたもので、事前より話題沸騰だった試験だ。受験後、試験官でもある日本バビロン検定協会のハーポ部長とペペ長谷川氏が採点の上、各受験者ごとに級位を認定してくれる。
厳かな雰囲気に包まれた試験会場は、オレが着いたときには真剣な面持ちで試験に取り組む受験者ですでに満席で、しばし待たされたのちに試験場に通され、答案用紙を受け取る。少々悩んだ問題もあったがおおむね自信を持ってスラスラ回答し、その直後に採点・判定を仰いだところ、なんてこったい、結果は《失格》だという! 呆然として前掲の一流バビロン診断士2名の寸評を求めると、「ひど過ぎる、まるでダメです」と、意気込んでやってきた受験者をけちょんけちょんにけなしまくるのだ。
そして、そんな最低の成績を収めた失格者にのみ、これでも着やがれとばかりにTシャツを投げつけられ・・・今まである程度はこの社会とうまくつきあってきたはずだったのに、いよいよ公式にバビロンの落伍者に認定されてしまった失意のオレは、ヤケクソになって記念にRLLの∞+∞=∞氏に記念写真を撮ってもらった。そんな人間だからもちろん公に顔など出して許されるはずがない。ああ、田舎の両親は自分たちの教育が間違っていたことをさぞ後悔するだろう・・・。
さらに、不名誉な戦利品である写真の不吉なTシャツの下に隠れてしまって、土曜日のオレのせっかくの“おしゃれ”な装いを披露できないのが残念だ。この日着ていたのはこれ。
つづく。
7.03.2009
Hit me!
■それほど露骨な感じじゃなく、かつ金をかけずに『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』を宣伝しようと思って始めたブログも丸ひと月以上経ち、Google の無料アクセス解析サーヴィスを使ってどんなアクセスがあるのかを見ていると、少しずつ世間の反応が見えてきた。一番興味深いのは、やはりどんなワード検索でこのブログを発見してくれたのか? だ。
《村上春樹》の名前を出したのは、こんなに騒がれているときに彼の名前を出したら一体どれくらいの人がそのワード検索でこのページに辿り着いてくれるか? という実験の意味合いがあった。ところが、結果は期待に反して今のところゼロ。そのかわり、《シュニッツェル》《シュニッツェル つけあわせ》《ストンプ じゃがいも》なんていうワード検索経由で何人もここを訪ねてくれたのがおかしい。(知ってる人にとってはあまりに当然のことですが・・・もちろん訪ねてくれた個人は特定できません。もちろんその人がどんなグルマンかも)
さらに笑ったのは、《巡回連絡カード》《巡回連絡カード 無視》なんていうキー・ワードでこのブログに来てくれた人が何人もいたことだ。もしその人たちの一部でも『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』を買ってくださったら、記憶にある限り生まれて初めて、警察に感謝の念を抱くことになろう(笑)。
あとは《死刑》《終身刑》《菅家さん》《アナキズム》というワードもヒットしてるし、《ボリス・ヴィアン》《リー・ペリー》《マニュ・チャオ》《地下鉄のザジ(ニュー・プリント版の試写、観てきました。公開が近づいたらまた触れます)》《高山なおみ》《サウンド・オブ・ミュージック》などからここを発見してくれた方々もそれぞれ複数。多謝。
それらの語句を検索エンジンに入力したみなさんは、ヒットした数あるページの中からわざわざこのブログに来てくれたわけで、ぼくからすると、それこそ“ヒット!”なわけです。楽しみでやってるわけではないはずが、この“ヒット”予測は面白い。
で、《村上春樹》でダメなんだから、この人の名前出してもアクセス数は増えないでしょうが、マイケル・ジャクソンの死は、ぼくにはあまりショックではないです(同日のファラ・フォーセットの死の方が、随分胸に迫るところが大きい)。ジャクソン・ファイヴは好きで主要曲は全曲持ってるけど、マイケルのソロは『オフ・ザ・ウォール』しか買わなかった。特にそれ以降は所有したい音楽ではなかったのです。
彼の他界に際してちょっとだけ悲しいのは、ジェイムズ・ブラウン(“ヒッミー! ヒッミー!”・・・そういえば、民主党にもこういう口癖の国会議員がいると噂で聞いたことがある)の死と、MJの死との間に、メディアの反応としてこんなにも差があることを思い知らされたことです。青は藍より青いのか?
(MJにひいき目に言うと)ポピュラー音楽史において2人とも同じように偉大で、(ひいき目に言わなくても)同じように問題“児”だったのに、マスメディアは両者のニュース・ヴァリューに天と地くらいの差をつけてしまう。まあ、死してなおメディア好きのする問題山積なんだから仕方ないかとも思うけど、それにしても・・・。
今朝の『とくダネ!』で小倉が、MJ はプレスリー、レノンと並ぶ世界的大スターだからね、と言ってたが、それを聞いて初めて意識した・・・オレの中ではその3人合わせたよりもJB1人の方がずっと偉大なんだと。今頃、JBを失った喪失感が胸にこみ上げてきた。
とにかくワイドショウのここしばらくのMJ騒ぎで、「Thriller」の♪ビョンビョンビョンビョンビョン♪っていう例のリフやら、その慢性しゃっくりやらが頭にこびりついて悩んでいる人は、JBの「Get on the Good Foot」とか「I Got a Bag of My Own」「Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine」なんかを聴くとスッキリ治ります。