その“実体”を知りたい人はこのサイトを。
9.30.2009
9.27 デモ映像
その“実体”を知りたい人はこのサイトを。
面白いラジオ(秋のラジオ考)
追記:Radio Nova は、サイトのリニューアル後、おそらく物凄いアクセスが殺到しているのでしょう、なかなかストリーミングできない。ここ最近、こんな状況はなかったのだが・・・。トライしてダメだった人は、時間をおいてまた行ってみてください。
9.27.2009
9.21.2009
ギル・スコット=ヘロン新作!
そのタイトルは『I'm New Here』。出口は XL Recordings。上述『Télérama』のインタヴューでは「オレ自身はそんなに新しくないけどね、アルバムは新しい」とジョークを飛ばしながら、発売は9月か10月と語っていたのだが、あっという間に(またもや)その発売予告もジョークになってしまい、現時点では《来年の早い時期》になってしまっている。が、そう記したティーザー・サイトがインターネット上にアップされているのだから、出るのは確実で、ひと安心。そいつを5回位繰り返して観ながら(新曲の断片が4曲くらい聴ける)ウィスキーで祝杯を上げたところだ。《黒いボブ・ディラン》の異名も取った男だが、タイトル曲は本当にディラン・チックな弾き語りのトーキング・ブルーズだったりする。声も出てるし、いい声だ。http://imnewhere.net/
9.20.2009
マニュ・チャオ通信(#13)
9.17.2009
で、その歌は立ち上がるのかい?
47NEWS (2009/09/17 12:26 【共同通信】)
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091701000295.html
■マリー・トラヴァースがいなくなった。好きな歌手がまた1人、いなくなった。オレの年代でもP.P.M.が好きな人は少ないと思うけれど、彼らの存在感、行った仕事の素晴らしさは、聴く者の生まれた年代、世代とは何の関係もないことだ。
日本人なら、横田めぐみさんの救出と拉致問題の解決を祈って真ん中の“P.”=ポール・ストゥーキーが「Song for Megumi」作り、歌ったことは記憶に新しいだろう。しかしそれとて、ピーター、ポール&マリーの現役時代の音楽、メッセージを知らない人にとっては、あのガイジン、誰? ってなものだったのかもしれない。
で、この悲しいニュースも、このオバサン、誰? ってなことになるんだろうな。
彼女とP.P.M.の映画が作られて、マリーの死を悼んで《2週間限定》で劇場公開されるなら、オレは初日に観に行くだろう。劇場が開く前から入口に並んでもいい。
『A Song Will Rise』(1965)
*
そんなことにはなりそうにないから、せめて1曲聴いて彼女の死を悼みたい人には、たとえばこれなんかどうでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=qspQGHz4v1o
『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』
■パティー・スミスのドキュメンタリー映画を観た。“美しく”、実に考えさせられる作品だった。
ファッション・フォトグラファーのスティーヴン・セブリングが11年間の長きに渡ってスミスを撮り続けた映像を編集したものだが、作品は時間の流れに沿ったものではない。一応、彼女の身に起きたこれまでの大きな出来事は順を追って言及されてはいるが、それは単なる確認、あるいはスミスのことをよく知らない観客にこの1人のアーティストの半生に関する基礎的な知識を与える程度のものでしかない。
この作品の主眼は、彼女のこれまでを振り返ることではなく、彼女自身をさらけ出すことにある。痩せぎすで髪の毛はぼさぼさ、パンクでやかましい音楽を作り歌ってきた女性も還暦を過ぎた。そのスピリットは今も、饐えも欠けも朽ちもしていない。その内面に流れるものは、堅固なだけに、静謐でむしろ慎ましい。・・・このドキュメンタリーは、文芸映像作品として明らかにクラシックな話法でそれを綴っていると理解した。
ネガティヴな形容詞を並べるなら、この映画は、つまりこの映画の中のパティー・スミスは、ナイーヴ過ぎで、自然過ぎで、あからさまに過ぎる。
無防備な咆哮の中に、はからずも心の奥底の震えまで滲み出てしまっているような彼女の歌だけで、もう充分なのではないか、という気にもさせられた。こんなに裸を晒さなくとも、レコードの声だけで充分に生々しく、ヒリヒリしているのに、と。
それに、自室で笑顔を見せ、過去を語り、いまだにディランを崇め、つたないギターの弾き語りを聴かせてしまうなんて、“パンク・ロッカー”としてあるまじき行為である!
ファンは、こういうスミスの中の親しみやすい側面、ときに優しいおばちゃん像を欲しているのかどうか、映画を観ながらずっと考えていた。“自然な”、とか、“ありのままの”、とか、“等身大の”、といった安い形容をありがたがる世の中の風潮には、その大抵の文脈において虫酸が走る。つまり、そういうオレがパンクなんだろう。それも、少々頭の堅い。
そんな少々頭の堅いパンクスがこの作品のナイーヴな美しさに少々困惑するとき、そんなことを十二分に予想した上でこういう作りにしたスミスを含む制作者側の意図を考えることが、この映画を観ることと完全に同義になる。
ボブ・ディランが自分の映像作品の中で何かを語るときにそれがロックであること、キース・リチャーズが映像の中で何かを語るときに、それがまたディランとは少々質の異なるロックであること、それらならばストレイトに感じ取ることができると自分では思っているのだが、この作品でパティー・スミスが何かを語る場面の幾つかから受ける彼女の無垢さは、オレの親しんできたロックのピュアさとは次元が違っていて、受け手(彼女のレコードのファン)としてどう気持ちの中で対処していいのか分からなかった。そんなにイノセントだと困る、みたいな気分だったのだ。
オレはロックを信用しているから、オリコン・チャートの常連の“ロック”を信用しない。そんな自分にとって、パティー・スミスは数多くない信用できるロックだという確信があるから、この作品の何箇所かで感じた困惑も、きっとそのロックの一部であるだろうことは容易に想像できる。オレには、彼女からまだ学ぶべきロックがあるということだろう。それが思い違いでないとしたら、これは実に素晴らしい作品だ。その可能性が高い。だからもう一回観に行こう。
この映画に対して日本の著名人が大勢、絶賛の声を寄せているのも読んだ。オレはそういう人たちよりも鈍感なのか、彼らほどパティー・スミスのことを実はよく知らなかったのか、もしくはその両方だと思う。
http://www.pattismith-movie.com/
9.14.2009
ジャズ・ミュージシャンの3つの願い
9.08.2009
Capitalism : A Love Story
■イタリアのヴェネツィア映画祭で6日、マイケル・ムーアの新作が初公開された。タイトルは『Capitalism : A Love Story』!
《“資本主義は害悪であり、あなたはその害悪を規制できない”、と、この2時間の映画は結論づける。“それを排除し、総ての人にとって好ましいもので置き換えなければならず、その重要なものがデモクラシー(社会的平等)なのだ”と》。
これはEPC通信の記事からの抜粋だが、同じ記事では、ムーアの以下の記者会見発言も取り上げている。
《民主主義は見るスポーツじゃない。参加する試合(event)だ。もしも我々がそれに参加しなければ、それは民主主義でなくなってしまう。だから(新自由主義に対する反省に基づく)オバマ(の政策)が成功するか失敗するかは、彼が何をするかによるというよりも、むしろ彼をサポートするために我々が何をするかによるんだ》。
昨日フランスのTV局《TV5MONDE》のニュースを観ていたら、この映画のヴェネツィアでのワールド・プレミアの報道に続いて、記者会見場の外でのムーアとファンとのやり取りも放送されていた。
それは、ムーアにサインをねだったファンの1人がサインのお礼にとムーアに現金を渡し、「これはベルルスコーニのカネだったんだよ(実業家、メディア王であるベルルスコーニの企業のどこかからもらった賃金という意味か)」と言い、それを受け取ったムーアがカメラに向かって、「贈り物ありがとう、ミスター・ベルルスコーニ。これ、あんたをぶっ潰すために使わせてもらうよ」と言っているシーンだったのだが、見た限りでは、日本のテレヴィはこの報道をしていないようだ。
http://www.michaelmoore.com/words/message/
予告編:
http://www.youtube.com/watch?v=IhydyxRjujU
9.07.2009
tokyoなんとか 09月号
http://a.sanpal.co.jp/irregular/tokyonantoka/200909_02.pdf
http://a.sanpal.co.jp/irregular/tokyonantoka/200909_03.pdf
http://a.sanpal.co.jp/irregular/tokyonantoka/200909_04.pdf
9.05.2009
マニュ・チャオ通信(#12)
Mano Negra clandestina マノ・ネグラは不法組織扱い
Peruano clandestino ペルー人は不法者扱い
Africano clandestino アフリカ人は不法者扱い
Marijuana ilegal 大麻吸った程度で犯罪者扱いだ
■Manu Chao『Baionarena』の発売は、結局フランスでも9月にずれ込んだようだ。
量販店 fnac のサイトでも、ストリート・デイトは9/14に変更された。
日本では @TOWER.JP が 9/8、HMV が 9/11、amazon.co.jp が 9/28と、それぞれ思い思いに予定日を表示している。
《Manu Chao》や《Baionarena》を検索ワードにしてこのブログに辿り着く人が非常に多いので、最新情報を更新しておきました。・・・バルセロナやマドリッド在住の(きっと)日本人のみんなも、祖国での“マヌ”の人気を気にしてか、ここにも頻繁に訪ねてくれているようだ。オラ・アミーゴス・コモ・エスタス?
ちなみに、チャオのサイトのヴィデオ・コーナー《TeveLina》では、『Baionarena』の収録DVD映像からの初カット「Clandestino」が観られるようになっていて、これが既にシビれる。
http://www.manuchao.net/tvlina/index.php#194
スペイン語を勉強したいオレのような者には便利な加湿器。もうこの漢字が最初に出てくる季節か・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=em9Tx4M3ydo&NR=1
『Baionarena』のヴァージョンでは、この通りには歌っていないけれども。
9.03.2009
夏の終わり
■夏の終わりといえば・・・キャロルの「夏の終り」である。ぎらぎらした太陽に焚きつけられ、永遠に続くかのように思われた祝祭的な高揚感は、次第に色濃くなっていく秋の気配の中で少しずつその荒々しさを失っていく。人気のなくなった波打ち際で、遂には力なく夢から覚めてみると、足もとに喪失感がポロンと1個転がっているのに気づく。“ひと夏の恋”とは無縁の生活を送ろうと、ひと夏の終わりは、ひとつの恋の終わりである。好むと好まざるとに関わらず、ロマンティックで感傷的な、他のどの時期にも存在しない種類の空気が2~3週間をそこはかとなく支配する。で、それが今の季節感のはずだ。
が、今年はそれがないのが、やはりどこかもの足りない。夏らしい夏もなかったし、涼しいのはいいんだけど、ぬるい“夏もどき”からこのだらだらと寒くなっていくメリハリに乏しい感じがスッキリしない。長野騒乱《なんとかフェス》で、新型のサマー・オブ・ラヴを堪能したことが唯一にして決定的な救いだったな。
9月に入ると、なんと、あと2ヶ月ちょっとで《今年のベスト・アルバム》を選考しなくてはならない時期になるという事実が頭をよぎる。毎年『ミュージック・マガジン』でレゲエの年間ベスト盤ランキングと、ジャンルに関係なく個人的に評価する作品ベスト10を選んでいるが、その特集が掲載されるのが12月末発売の翌年1月号だから、選出の最終期限は11月の末になるわけだ。で、実は、音楽作品のリリース状況は、この夏の終わりからが“熱い”。その年のベスト作品候補が、例年9月~11月の間に大量にリリースされるのだ。
それは何故か? 巨大音楽市場を持つ欧米諸国の新年度が9月開始だからである。特にアメリカは会計年度も9月に始まることが大きい。夏休みを終えた企業が本腰を入れて稼ぎ出す季節だ。また、《ベスト・アルバム 2009》的なメディアの企画に対して作品のインパクトを持つにも、作品は秋にリリースする方が有利である。さらにはクリスマスの習慣を大事にする人たちにとっては、レコードやCDはこれまで長らく贈るプレゼントの候補として実に手軽で有効なものだったから、各レコード会社はそのクリスマス商戦に向けて“売り物”を揃えてぶつけてくる。だからグラミー賞とかいう(どう見ても健康的には思えない“政治的”)催しも、年が明けて落ち着いた2月頭なんだろう。
ってことで、今年もここからジャンルに関係なく、新作の音楽をガンガンに聴く“楽しみ”があって、それはそれでオレにとっての職業的な季節感を形成してはいる。
とはいえ、この病んだ気候がますます助長する、日本のこの9月のフレッシュ感のなさには、やっぱり少々気が滅入る。制度的にいって、何週間かのヴァカンスでゆっくり心身を休めたサラリーマンの、精気を取り戻した表情が街中に見受けられるわけでもないし、新学期を迎えた子供は元気いっぱいなはずなのに、インフルエンザ予防のマスクをつけて登校している姿が痛々しい。のりピーも民主党も、テレヴィのやかましさが辟易を通り越して寒々しいだけだ。あったかいお茶でも飲みながら、静かにこつこつ仕事する9月にしよう。遅れてる仕事があるわけだし。
と思っていたら、つい先日届いたフランス国鉄の(正確にはその関連旅行代理店の)ニュース・レターには笑わされつつも、ちょっと刺激された。
フランスって国では、労働法によって給与所得労働者は全員5週間の年次有給休暇を取ることが定められている。義務として休ま(せ)なくてはならない。なのでサラリーマンは、夏には普通最低でも3週間はまとめて休んで9月の頭に新年度を迎え、会社へと戻って来るわけだが、この女性はオフィスに戻った途端に仕事にウンザリし始めている。
で、早くも《新年度にノン!》という気分になっている。
で、ニュース・レター・メイルの写真は自動的に2枚が交互に表示されるようになっているが、2枚目はこれ。
《・・・終わらない夏に、ウイ!》
そして、〈外の空気に当たりたくはありませんか? あなたの夏を引き延ばして、9月の週末に旅に出ましょう〉っていうお誘いなのだ。
少なくとも3週間は休んだ国民に国鉄が言う言葉かよ、とも思うが、こういう宣伝コピーで効果があるとマーケティングされている国民が、つまりそういう国民性なんである。
日本にはそんな法律もなければ、そんな国民性もないが、こういうのを見ると、「オレもまだもう少しなんか楽しいこと、しよう」という気になる。その気分が大切だ。
たとえ、自由になるカネがなく、引き延ばす夏自体がなかったにせよ、だ。