4.09.2010

アデュー、ムッシュ・マルコム・M.

■夕刊で、マルコム・マクラーレンの死を知った。

オレは物心ついたときからセックス・ピストルズが嫌いだった。オレはパンク・ロックに対してある種の潔癖症なのだ・・・若い頃は感覚的に(軟派なものを忌み)、今は政治的に(意味のないものを忌む)・・・。クラッシュの『サンディニスタ』に衝撃を受けて以降――最初からインチキ臭かったセックス・ピストルズだったが――その雑音が、いよいよリカちゃんがホットケーキを焼くおもちゃのままごとになった。あの最低さが最高だという言説の意味は、頭では分かったが、あの最低さをそれ以上のものとして暖かく評価する無駄な心の広さがオレには決定的に欠けていた。若さの貧困的側面だ。

今日、マクラーレンの死について一気に報道が流れ、〈彼がいなかったら、パンクは生まれなかったかもしれない〉だの、〈“アナーキー”という言葉を世界一カッコよく世の中に広めた男〉だの、ジャーナリストや評論家がチャラチャラした文句で原稿料を稼いでいるみたいだが、超一流のペテン師を送る言葉として、三流の偽善・妄言は失礼なんじゃないか?

マルコム・マクラーレンの魅力は、ただただその真摯なペテン振りであり、その堂に入った奥深さに目を奪われているうちに、ペテンが真実になって本物より美しく見える事故も起きた。三文役者集団のセックス・ピストルズが時代の寵児になったのは、それが、連中の生みの親マクラーレンによる、オールド・スクールなロックン・ロールに対抗する真剣に出鱈目なアートだったからだと思う。

トリックスターのトリックスターたるゆえんは、ペテンの核に、目をみはるインパクトとクリエイションとリアリティーがあることだ。マクラーレンは80年代に自分名義の音楽作品でヒップホップを真剣に茶化し、しかしその“インパクトとクリエイションとリアリティー”が時間のフィルターで濾された末に残った輝ける核の部分が、今日ヒップホップの古典として満場一致の評価を受けている。要するにピストルズが受けているのと同じ評価をヒップホップ界でも博したわけであって、これがマクラーレンの天才だ。

90年代に入ってロンドンからアシッド・ジャズ・ムーヴメントが世界を席巻すると、今度は真剣にジャズを茶化す。しかし、長きに渡ってDJ連中が育ててきたレア・グルーヴ~アシッド・ジャズ畑が、当時派手な収穫期に入って沸き立っていたロンドン・シーンの後塵を拝することもなく、ならばニュー・ヨークに乗り込むでもなく、パリをそのネタにしたのがマクラーレンのセンス。


それが94年にリリースされたパリとジャズへのオマージュ・アルバム『Paris』で、本人はエリック・サティーの、アート・ブレイキーの、セルジュ・ゲンズブールのパリに対する憧れを作品化したとCDの裏ジャケにメモしていたが、欧州や日本では猫も杓子も“新型ジャズ”を標榜する中で、トリックスターの真打ちも満を持して今度はジャズだとのたまい、当時他界して間もなかったゲンズブールもダシにして、えせドアノー風のモノクロのセルフ・ポートレイトをブックレットにちりばめ、カトゥリーヌ・ドゥヌーヴに、フランソワーズ・アルディーに・・・とにかく、この世界中の非フランス人のパリ・コンプレックスを煽るベタベタな打ち出し方がインチキ臭いことこの上なかった。そのドゥヌーヴをフィーチャーした「Paris Paris」のシングル・ヒットでこのアルバムはまんまと世界中で話題になったが、あんな陶酔境のようなパリは実際にはどこにも存在しない。世界中のみんなが見事にマルコムのインチキなパリにやられた。

オレはこのアルバムが出た94年の、ちょうどその直後にパリに引っ越したので、この作品が個人的にとても思い出深い。それまで東京で“レゲエ屋”だった男がレコード屋を退職してパリに行く理由が、当時なかなか周囲に理解してもらえなかった。そもそもオマエのようなストリート・ミュージック系の音楽屋が、ロンドン、ニュー・ヨーク、キングストンではなくて、なんでパリなんだと。・・・いや、でもパリは世界に名だたるレゲエ・シティーなんですよ――独自のヒップホップ文化も充実しているし、ブラック・アフリカやアラブの音楽もパリでどんどん洗練されてるし、もちろん欧州のジャズの首都でもあるし、音楽的に聴くものだらけなんですよと、多くの人に説明したり、雑誌なんかにいろいろ書いても彼らの先入観を覆す効果はほとんどなかったようだ。とある大手レコード会社の優秀なA&Rマンはその後何年間も、オレが行ったのは〈Paris〉ではなくて〈Bali〉だと思っていたくらいだ。まだ、レゲエには海と太陽が不可欠だと思われていた石器時代の話だ。
で、そんな連中もみんなマクラーレンのこのアルバムを聴いて、オシャレだとか洒脱だとか、さすがスタイリストは違うな、とか納得しながらウットリしていた。

だけど、オレはこのアルバムの1曲目がレゲエであることに誰も注目していないのが不思議でならなかった。〈古き佳きジャジーなパリ〉をテーマにしたはずのアルバムが、なんでレゲエから始まり、わざわざ曲のクレジットに〈African Chorus〉と強調したり、他の曲ではアフリカ人のストリート・スタイルのラップも、アラブのメロディーも入っているというのに、このアルバムのそういう側面には(いくつか日本語のレヴューを読んだが)ほとんど留意されていないようだった。

マクラーレンは、ノスタルジーとファンテジー渦巻くインチキ(非リアル)な“魅惑のパリ”で世界中の耳目を集め、その中に、彼の目に映るリアルなパリを忍び込ませた。もちろん戦後のパリにも、当時のサン=ジェルマン=デ=プレ文化、ジャズやボリス・ヴィアンにも、その弟子のゲンズブールにも憧れを抱いていたことは間違いないし、そのイメージを音的に表現したことは事実だろうが、彼が一番この作品でやりたかったことは、ジャズ・ブームを手玉にとり、世界の多くの人がいまだにパリのイメージをアップデイトしていないことの鈍感さを揶揄しながらリアルなパリの街角の感触を表現することだったはずだ。彼は過去のパリも好みつつ、でも、現在のパリの姿をより一層好んだからこそ、こういうシニカルなアルバム作りをしたはずだ。そしてその現在のパリを音で表現すると、それはレゲエであり、ラップであり、アフリカ人の声であり、マグレブのメロディーなのだ。

オレは、だからこの出たばかりのアルバムをパリで、胸のすくような思いで繰り返し聴いていた。レゲエ屋が東京の会社勤めを辞めてパリに住んじゃったけど、そんなオレのセンスって結構イケてんじゃん、という確信を持たせてくれたのがマルコム・マクラーレンなのだ。その意味で、この人もちょっとだけオレの恩人である。そして、純粋で真剣なインチキは、その存在自体でおのずと本物を相対化して可視化させるから、つまりマクラーレンは反面教師なんかじゃなくて、クソったれにかっこいいインチキズムの巨匠としてクールだったんだ。弔いに1曲聴こうよ。ほな、さいなら、マクラーレンはん。